■節子への挽歌606:自分の心の供養が充分でない
節子
この挽歌の読者にはいろんな人がいます。
節子が知らない人のほうが、むしろ最近は多いかもしれません。
節子と一緒にやっていたオープンサロンにも、実にさまざまな人たちがやってきましたが、それに劣らずさまざまです。
その一人に、元やくざの dax さんがいます。
daxなどいうと可愛げもありますが、夜、突然目の前に現れたら、私も間違いなく身を縮めるほど迫力ある風貌をしています。
しかし、その笑顔は、誠実に生きてきた人でないと見せられない無邪気さが溢れています。
daxの名前の由縁を聞いていませんでしたが、彼のことですからいろいろと意味があるのでしょう。
daxさんは博識ですが、インテリやくざではありません。
正真正銘の真正やくざです。
もっとも私はやくざとは付き合いがないので、勝手な解釈なのですが。
彼は、私のブログを読んで、時々、文字の間違いを知らせてくれます。
私は書いたものを読み直す習慣があまりないので、誤植が多いのです。
それがdaxさんは気にいらないのです。
余計なお世話でうるさいなあ、と思っていたら、彼からこう言われました。
自分で書いた文章は、自分の子どものようなものだから、責任を持たないといかん。そういわれると返す言葉がありません。
彼は昔、中絶相談サイトを独自に創り、多くの女性の相談に乗っていたことがあるのです。
以来、彼に読まれそうなときには読み直すことにしています。
これも読み直して、完璧にしないといけませんね。
もっとも、先の言葉は、実はdaxさんもパートナーから言われたのです。
dax のブログ「手垢のついた日記」を読んでの注意らしいです。
このブログは面白いですので、お薦めです。
話が長くなりましたが、そのdaxさんが私の娘に書いてきたメールです。
なぜか彼はわが娘と波長が合うようです。
それに娘のスペインタイルのお客様になってくれているようです。
さて、肝心のメールですが、こういう内容です。
今日もブログの「文字間違い」と、「変換間違い」のチェックを入れましたが、大丈夫でした。いつも思うのですが、あれほどいつも「節子さん」の事を想うと言うことは、見方を変えれば、節子さんは今でも佐藤さんの中に生きている・・・、居なくなってはいない・・・と言うことだと思うのですが、佐藤さん自身の、自分の心の供養が充分でないのでしょうね。はい、そのとおりなのです。
供養とは、逝った人に向けながら実は自分の心を供養して、自分の心が整理できて始めて立ち上がる気力が湧くのだと思います。
「自分の中にいる大事な人の存在」に気付けば、佐藤さんの(陰り)の部分も払拭されるのではと、期待しつつ彼とのお付き合いをこれからも楽しみたいと思っています。
この挽歌は、私自身の鎮魂歌であり、自分の供養なのです。
自分自身を逃げずに、正面から修羅場を生きてきた人の言葉は真実味があります。
しかし、daxさんから期待されても、なかなか私の「(陰り)の部分」はなくなりません。
期待にこたえないとどうなるか。
彼から「指のつめ方」を教えてもらいましたが、それだけは絶対にやりたくないですね。
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