■浪費国家
さらに15兆円の補正予算がでてきました。
まさに日本もアメリカ型の浪費国家になってきました。
その先鞭をつけたのは小泉政権ですが、そこから加速度的に浪費奨励が行なわれ、財政改革や公務員改革などというスローガンとは裏柄に、浪費は加速化しています。
しかも、その浪費行動を国民にまで広げようということが、あからさまに行なわれだしています。
その報道をしていた朝日新聞の別のところに、総理の海外出張の費用が出ていましたが、億単位というのにも驚きました。
まあ、私の金銭感覚が最近はずれているのかもしれません。
資本主義は、自転車のように動いていないと倒れる仕組みです。
しかもその動きは、拡大でなければいけません。
拡大していかない限り、「資本」は自己増殖しないからです。
そうした仕組みを支えているのが消費者ですが、生活者を消費者に変えることが資本主義の成功の出発点でした。
ですから一概に「消費」が悪いとは言えませんし、消費と浪費はどこが違うかと問われれば、明確に答える自信もありません。
しかし、なんだかちょっと違うような気がしています。
景気浮揚と称して、政府からさまざまな助成金や「消費要請」が各地に出回っています。
私の周辺でも、そうしたお金を活用して、ビジネスをしている人も少なからずいます。
やっている本人が、こんなにお金をもらっていいのかというほどなのですから、たぶん楽な仕事であり、あんまり意味のない仕事なのかもしれません。
私もそのおこぼれに預かりたいと思う気持ちもないわけではありません。
またそうしたお金で利益を上げている人たちを非難するつもりもありません。
そういう活動を通して、社会企業的的な活動に向かっている人もいるでしょうから。
しかし、そのばら撒き方のひどさにはいささか疑問を感じます。
お金をばらまくことに関心があり、その使われ方にはあまり関心がないように感ずるからです。
そうした姿勢は、まさに定額給付金に象徴されています。
最近は変わってきましたが、少し前までは、
行政職員に事業とは何かと訊けば、「お金を使うこと」と答えたでしょう。
企業に人に訊けば、「お金を稼ぐこと」と答えました。
事業のためにお金があるのではなく、お金のために事業があったのです。
その発想からいえば、「消費」は事業であり、浪費は「良い事業」でした。
行政が無駄遣いしてきたのには、それなりの意味があったのです。
企業の事業もまた、自然や人間の「消費」でした。そして、消費がお金を生み出したわけです。
こうしたことは、資本主義に内在する本質的なものです。
しかし、そうした資本主義の本質が、いまさまざまな問題を起こしています。
それは資本主義が悪いということではなく、資本主義がもたらす問題です。
問題があるからそれ自体が悪いなどということにはなりません。
すべてのものには、問題があります。
完全無欠なものは、神だけだなど言う人もいますが、神様もたくさんの問題を抱えています。
悪と善は常にコインの裏表です。
資本主義を否定するのではなく、つまり消費を否定するのではなく、その「あり方」を考え直すことが大切です。
私自身の生き方においては、それなりに納得できる消費生活を行なっています。
しかし、私が納めた税金が、政府によって、私にとっては浪費としか思えない使われ方をし、それが回りまわって私を生きづらくはしてほしくないと思っています。
未来の世代からの巨額な借金で、今の贅沢を維持したくはないものです。
政府が浪費するとどうなるかは、かなりはっきりしています。
誠実に汗をかいている人と浪費で欲をかいている人の、経済格差が広がることです。
一見、景気は良くなったような数字は出てきますが、誠実に暮らしている人にはわずかばかりのおこぼれがくるのが関の山でしょう。
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コメント
消費がお金を生み出す資本主義、言い得て妙だと思います。
しかし、地球上の資源には限度があり、先進国並の生活をすれば30億人が限度と言われていますのに66億人を越える人が地球上に住んでいます。
人間の欲望と消費が環境破壊、温暖化問題、砂漠化、など諸々の事を誘発し、飲む水さえも枯渇するかも知れません。
質素な生活で真摯に環境問題に取り組んでいる人々もいます。
投稿: maron | 2009/04/10 04:23
ありがとうございます。
そうですね。
環境資源面から、消費拡大の限界が見えてきたのが、たぶんローマクラブの「限界の成長」が発表された1970年頃だと思います。
そこで議論が始まりましたが、結局、何も変わりませんでした。
消費起点の経済への大きな切り替えは、1940年代のトルーマンの「開発戦略」宣言からだったと思いますが、30年で限界が見えたわけです。
当時、私もある研究会で、環境資源のみならず、「人間性の消費」も進展し、経済の枠組みを変えないといけないなどと話していましたが、当時はまだ消費起点と言う意識が少なく、生産の経済学の視点でいたために、全体像があまり見えずにいました。
最近やっと少し、納得できる構図が見えてきました。
まあたぶんに私の独りよがりですが、それを踏まえて自らの生き方を変えてきています。
実際にはなかなか変わらないのですが。
投稿: 佐藤修 | 2009/04/10 07:32