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2009/04/22

■節子への挽歌598:寄り添う2人

節子
昨日の挽歌の牡丹の写真を見た人が、
「2つの牡丹、私には仲むつまじく寄り添う佐藤修さんと節子さんご夫婦のように映ります」
とメールしてきてくれました。
同じ風景も、いろいろに見えてくるのですね。

改めて今朝、2つの牡丹の花をゆっくりと見てみました。
ところがです。
2つの花がどうもそっぽを向きだしているのです。
今日の牡丹は、「仲むつまじく」寄り添っているようには見えません。
夫婦喧嘩している2人のようです。

私たちは、夫婦喧嘩においても自慢できるほど喧嘩をしました。
節子は「実家に帰ります〕とは言いませんでしたが、離婚しようと思ったこともあるそうです。
鈍感な私は、後で節子から教えてもらったのですが。
喧嘩はいつも、私が謝ることで終わりましたが、後半は節子が私をかわす知恵を身につけましたので、私が腹を立てるだけで喧嘩にはなりませんでした。
節子が病気になってからも、もちろん喧嘩はしましたが、年に1度くらいでしょうか。
節子はどうせ修が反省して謝ってくるからと、相手にしないようになったからです。
女はしたたかです。

今日の我孫子はとても快い春の日です。
25日にある集会をするので、自宅でその資料づくりなどをしていますが、あまりの快適さに庭の池の手入れをちょっとだけしました。
小さな池なのですが、節子と娘たちが私の還暦の祝と称してつくってくれたのです。
そこに毎年沢蟹を話すのですが、残念ながら棲みついてくれません。
でも毎日、どこかにいないかと沢蟹を探しています。
そういう私を見て、節子が郷里の滋賀に帰った時に、私と一緒に沢蟹を捕獲に行ってくれたことを思い出します。
この池にも、節子の思い出が山のようにあるのです。

思い出は、うれしくもあり悲しくもあり、複雑なものです。

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