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2009/04/05

■節子への挽歌581:惨めなほど、ひがむこともあります

一昨日から、箱根と湯河原に行っていました。
仕事の関係なのですが、季節柄、大勢の観光客でにぎわっていました。
中高年の夫婦も多く、それがとても心に残りました。
やはりどこかに羨望の念があります。
仕事とはいえ、一人であることになぜか「負い目」を感ずるほどでした。

子供の頃、片親だけの友人がいました。
当時は何も感じませんでしたが、なぜかこの頃、その友人のことを思い出します。
父を見送った後の母のことも思い出します。
私には当時、その意味がまったくわからなかったことがとても気になっています。

前にも一度書いたのですが、どこかで敗北感を持っている自分がいます。
人生の敗者のような感覚が時々首をもたげます。
こんなことを書くとまた友人は心配するでしょうが、たぶんこれは感受性の高まりであり、私にとっては歓迎すべきことなのです。
なぜなら、そうなってから見えてきたこと、気づいてきたことがたくさんあるからです。
もっとも、人生は気づくことが少ないほど「幸せ」なのかもしれません。
生きやすいのかも知れません。
しかし、幸せでなくとも、生きにくくとも、新しい体験と世界の深さを知ることは、人生を豊かにしてくれます。

テレビで、高齢者の健康をテーマにした番組があります。
その種の番組に拒否感が出てしまいます。
元気な老後を過ごすために健康に気をつけましょうなどという話が一番だめなのです。
自分が責められているようにさえ思ってしまいます。
惨めなほど、ひがみっぽくなっているのです。
節子は、私よりは格段に健康に注意していました。
にもかからず病気になってしまいました。
だとしたら、隣にいた私の責任なのでしょうか。
そう思うと節子への申し訳なさや自分の不甲斐なさが襲ってくれるのです。

「善意」や「幸せ」がこうして、感受性の高い人や特定の立場にある人をさいなむのです。
私自身、そうしたことをこれまでどれだけたくさんやってきたことでしょうか。
そう思うと自らの罪深さにおののきます。
時々そうした感情に襲われてしまうのです。

他者の幸せを見ることが自分の幸せに通ずる、と宮沢賢治はいいましたし、私もそう信じています。にもかかわらず、それに矛盾するような気持ちが時々起きてくるのはなぜでしょうか。
自分の卑しさを、時に呪いたくなります。

春なのに、ちょっと暗い話をしてしまいました。
節子
きみのいない桜の季節は、ただたださびしいだけです。

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妻への挽歌03」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。偶然たどり着いてから拝読しております。
>子供の頃、片親だけの友人がいました。
>当時は何も感じませんでしたが、なぜかこの頃

すごくわかります。私はもう30代後半の中年ですが、10年前癌で父を失って以来、老母との二人暮らしです。
父が死んだ当初、母が「世間に引け目を感じる」と盛んに言う意味がわかりませんでした。(「みんな死ねばいいのに」などと物騒なことも口にしていました)
また職場で、夫と離婚し母子家庭となった人が「男が家にいないと馬鹿にされる」とよく言う意味もわかりませんでした。
が、今はよくわかります。
母はすっかり人の集まりに出かけなくなりましたし、世間や近所の人から段々と軽く扱われるようになるのもも肌で感じます。
片親の苦労など人事のように生きてきましたが、中年になってもこんなにヒシヒシと感じるということは、子供の頃からそう育った人はどんなに苦労したことだろうかと、今更ながら自分がいかになにも知らなかったかを思い知らされている気分です。
僻むからか、ますますひねくれてくるのが自分でもわかります。人の幸せを願う気持ちも勿論嘘でなく持っているのですが、身近な周囲に対しては素直に思えず、母もますます頑なにひがみっぽくなり・・・の悪循環です。

父の死後、向かいのエリート夫妻とすっかり険悪になりました。その隣の寡婦のご夫人がひどくそのエリート夫妻のことを元々嫌っていたのですが、「なんであんなに嫌うのかしら?」と母は言っていたくらいなのですが。
仲が悪くなると益々意地悪もされるようになり、近所の人も腰巾着のようにそちらに合わせるような人もあり、人の本性に薄ら寒くなります。
本当に夫婦2人揃っているほど強いものはないですね。
佐藤さんの場合は、またうちとは全然違うと思いますが。 
愚痴になってしまいました、すみません。苦笑

投稿: カモミール | 2009/04/06 17:03

カモミールさん
ありがとうございます。

何回も読ませてもらいました。
この記事を書いてよかったと思いました。
実は掲載しようかどうか、ちょっと迷ったものですから。

私だけの過剰反応かなとも思っていました。
でもどうも荘ではないようですね。
別の方からもちょっと似たようなメールをもらいました。

体験したものでないとなかなかわからない感覚でしょうが、
でも体験者も過剰に反応している部分も否定できません。
とてもよくわかってくれている人も少なくありませんし。

東京の湯島天神の前に個人オフィスがあります。
万一、近くに来る機会があれば、声をかけてください。
同じ体験をしたもの同士、少しは元気を分かち合えるかもしれません。


投稿: 佐藤修 | 2009/04/06 18:56

カモミールさん
追伸です。

>人の本性に薄ら寒くなります。

とありますが、私も同じ思いを感じたこともあります。
しかし、その反面、
人の本性のあたたかさに感じ入ることもすくなくありません。
たぶんカモミールさんのお母さんも、同じ体験をされていることと思います。
自分の意識をちょっと変えると、その温かさが身にしみてくることもあります。

蛇足とは思いますが。

投稿: 佐藤修 | 2009/04/08 08:55

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