■節子への挽歌587:伴侶が残してくれた目に見えないもの
もう一度だけ、挽歌にメールをくださった方の話を書かせてもらいます。挽歌583「桜のお誘い」に「ききょう」さんからコメントをもらいました。
全文はコメントを読んでください。
ききょうさんも、やはり、お花見はまだだめのようです。
「私も桜の花は楽しむどころか、ちょっと視界からはずしています」と書いています。
そして、ききょうさんはこうも書いています。
最近やっと気がついたのですよ、そうなのです。
夫が残してくれた目に見えないものがたくさんあるということを。
先に逝く人は、ほんとうにたくさんのものを残していってくれるのです。
そして、それが残されたものにとっての大きな支えになるのです。
いささか大げさに聞こえるでしょうが、いまある私は、すべて節子が残したもので成り立っているのかもしれません。
それほど愛する人と一緒に生きた意味は大きなものなのです。
時間がたつほどに、その残してくれたものが見えてきます。
それが、いまの私を形づくってくれているのです。
そのことに気づくと、いまも節子と一緒だという、安堵感さえでてくるのです。
しかし、そのことと全く矛盾するのですが、
残していったものに気づけば気づくほど、寂しさが募るのです。
一緒にいるはずの節子の声が聞こえず、温もりが感じられない寂しさが、不安感を引き起こすことさえあるのです。
全く矛盾した話なのですが。
人は、他者との交流の中で、自らの人格を形成していきます。
ですから、どのような人と付き合ってきたかが、その人のアイデンティティに大きな影響を与え、人生を決めていくわけです。
一番交流の深かった伴侶のアイデンティティは、かなりシェアされているのかもしれません。
自分のなかに残っている節子に気づいて安堵し、いるはずの節子の不在に不安になる。
私もまだそんな毎日を過ごしています。
ですから、ききょうさんの書いていることが、とてもよくわかります。
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コメント
桜は罪作りな花・・・というわけではないのでしょうが・・・やはり、私も
お花見に気持ちはついていきません。
美しい花がまぶしくもあり、散り行く花びらを見て人生に結びつけ切なく
もなります。
今朝は家の前を流れている川に花びらが散って、美しい模様を作って流れて
いきました。「ほらきれいよ」「ほんとだ」ほんとにそれだけでいいのです
・・・・それだけでいいのに話すことも叶わないと気づき、またしても
どうして?と今までに何度も繰り返した思いに戻ってしまいます。
多分こういう思いは薄れるものでもなく、乗り越えるものでもなく、深くなり
それが日常になるのでしょうか。。。最近は悲しみも自分の一部になりつつ
あり、とても主人を近くに感じます。
桜は色々な思いを運んできますね。
投稿: 田淵 マサ子 | 2009/04/11 23:46
田淵さん
ありがとうございます。
>多分こういう思いは薄れるものでもなく、乗り越えるものでもなく、深くなり
それが日常になるのでしょうか。。。
とても実感にあいます。
最後に。。。とありますが、節子もなぜか、。。。で終わる文章をよく書いていました。
それを思い出しました。
投稿: 佐藤修 | 2009/04/14 07:24