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2009/05/31

■節子への挽歌637:68歳と62歳

節子
今日は昨日の続きではなく、別の話題を書きます。
昨夜、節子の夢を見ました。

昨日は私の68歳の誕生日でした。
昼間は「支え合いネットワーク」の交流会をやっていたのですが、夕方帰宅したら娘たちがお祝いの用意をしてくれていました。
私の好きなサザエと節子伝来の手づくりケーキが用意されていました。
プレゼントはないのかと督促したら、何と「肩たたき券」をくれました。
最近、私がかなりの肩こりになっているのをよく知っているのです。
いずれも、節子の文化を継承した、お金ではなく誠意のこもったお祝いです。
節子は、やさしい娘たちを残してくれました。
まあ、彼女たちがまだ家にいるのが問題ですが、今日はそんなことも忘れて、ただただうれしく思いました。
しかし、いつか書いたように、うれしい出来事は同時に、節子がいない寂しさを思いだせもするのです。
いささか浴が深すぎるかもしれません。

私は68歳になりましたが、節子は今なお私の中では62歳です。
節子とだんだん歳が離れていくような気がしないでもありません。
節子が彼岸へいってしまった時点で、節子は私にとっては永遠の存在になってしまいました。
もう歳はとらないのです。

人は不思議なもので、自分の年齢さえも相対的な目で考えます。
小学校の同級生と一緒にいると、相変わらずみんな小学生時代に気持ちになってしまいます。
節子と一緒だと、自分が年老いてきていることをあまり感じませんでした。
2人とも歳をとっているので、年齢の関係は変わらないからです。
時々、老いを感ずることはありましたが、普段は感じませんでした。
ところが、節子がいなくなった途端に、私の場合は、老いていく自分を認識できるようになりました。
娘たちとの関係も変わりました。
節子と一緒だった時は、私たち夫婦の子どもという位置づけは動きませんでしたが、節子がいなくなり一人になってしまってからは、娘に養われる老人という自覚が生まれてきました。
伴侶を亡くすと、人は一挙に歳をとってしまうのかもしれません。

その逆の話も時々聞きます。
若返る事例もあるようですが、いずれにしろ年齢感覚が変わってしまう気がします。
私の場合は、老いを強く意識するようになりました。

節子が祝ってくれる誕生日と娘たちが祝ってくれる誕生日とは、全く異質なような気がします。
こんなことをいうと娘たちには申し訳ないのですが、やはり妻に祝ってもらう場合は若さを感じますが、娘たちに祝ってもらうと何となく老いを感じてしまうわけです。
まあ、実際にはそれが正しい感覚なのですが、伴侶がいると「老い」さえも感じないですむということかもしれません。
「横断歩道、一緒に渡ればこわくない」という話と、どこかでつながっているかもしれません。

それにしても、娘たちはよくしてくれます。
すべては節子のおかげです。
娘たちや節子のやさしさに報いるためにも、老いを活かしていかなければいけません。
68歳らしい生き方は私にはできませんが、私らしい生き方で68歳を過ごそうと思います。
62歳の節子が応援してくれているはずですから。

ところで、冒頭に書いた、昨夜の節子の夢です。
節子はよく夢に出てきますが、いつもはさりげない形で日常的に出てきます。
昨日は違いました。
夢の中で、節子と久しぶりに唇を重ねました。
滅多にない夢です。
節子からの久しぶりのプレゼントです。

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