■節子への挽歌617:弱音を少し
節子
たぶん走り続けているといいのでしょうが、少し気を抜いてしまうと、どうも気が萎えてしまうようです。
4月はかなりいろいろなことに取り組んだのですが、連休後半から、また心身が重くなってしまいました。
どうも周期的なそううつ循環が生じているようです。
そういえば、昨年もそうでした。
もっとも、気分が落ち込むというわけでもないのです。
やらなければいけないことがわかっているのに、身体が動かないのです。
たとえば電話です。
一言だけの電話で終わる用件なのですが、電話をかける気にならないのです。
なぜなのでしょうか。
まだどうも精神的には不安定状態のようです。
こればかりは自分ではコントロールできません。
気が萎えた時、たとえばこの数日がそうなのですが、「人間嫌い」になります。
一番嫌悪感を持つのは、言うまでもありませんが、自分自身に、です。
自分が嫌になるのも、うつの典型的な症状でしょうが、それとはちょっと違う気もします。
私は自分の感性を基本にして生きています。
時評編を読んでいる方は感じているでしょうが、かなり世間的な標準からははずれています。
しかも物事をかなり断定的に捉えます。
私と反対の考え方に対する理解力も一応はあるつもりなので、実際には自分の考えを相対化はしているのですが、書いたり話したりする時には断定しないとわかりにくいと思っています。
そうした生き方は、自分では素直に生きていると思っていますが、実はどこかで力んでいるのでしょう。
ですから、気が萎えてくると、世の中の大勢に合わせたら楽だろうなと思ってしまうのです。
世間の常識に合わせて生きていれば、こんな苦労もしないだろうと思ってしまうわけです。
そういう自分が情けなくなります。
節子も「正義感」の強い人でした。
もっとも、その「正義」も、私と同じでかなり独りよがりでしたが、私よりも直感的でした。
知識や情報からの帰結ではなく、暮らしやいのちからの反応でした。
そこから気づかされることも多かったです。
私が大勢に流されてしまったら、節子は嘆くことでしょう。
動かない身体を動かして、今日は3人の人に電話しようと思います。
今週は毎日湯島に出かけることにします。
怠惰になりがちな私を諌めてくれる人はもういませんので、自分で自分を鼓舞しなければいけません。
なんでそんなことをしなければいけないのか、という思いは消えないのですが。
節子
1年前と似てきているのがいささか気になります。
節子がひっぱっているんじゃないでしょうね。
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