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2009/05/02

■儲かる農業と暮らせる農業

佐々木さんが、日経ビジネスの特集、企業発「儲かる農業」のことを教えてくれました。
日本の農業生産高8兆1927億円(2007年) は約247万人で作りだしているが、パナソニックの売上高9兆689億円(2008年)は約31万人で稼ぎ出しているという比較に基づいて、「日本の農業の生産効率はパナソニックの10分の1」という記事です。
その論調に対して、佐々木さんは、「農業の方が10倍の人間が仕事に携わることができているということの方が、今は大切なのではないかと思えます」と言うのです。
とても共感できる指摘です。

「生産効率」とは「生産」の「効率」ですが、工業における「生産」は自然の「消費」にほかなりません。
もともと自然から調達した原材料を人工物に加工するわけですが、商品からみれば「生産」でも、原材料の自然からみれば「消費」です。
一方、農業、正確にいえば、工業化された農業ではない農業の場合、「生産」には「消費」の要素はありません。
むしろ自然の循環の中で、自然を豊かにする営みと言ってもいいでしょう。
ですからそこからは「消費」の残滓としての「廃棄物」は生まれません。
同じ「生産」という言葉を使っていても、その意味するものは全く違うのです。

日経ビジネスの記事に出てくる「農業」は、工業化された農業でしょうから、生産効率論議は成り立つのでしょうが、生産性のあまりの大きな違いは、産業とは何か、あるいは生産性とは何か、という本源的な問題にも通じています。
もし廃棄物や環境への影響などの「大きな枠組み」で、生産性を考えたら、パナソニックと日本の農業のどちらが効率がいいかはわかりません。
佐々木さんはまた、「生産高と売上高を単純に比較していいのかもわかりませんが」と書いてきていますが、「生産高」と「売上高」を並べているところにも大きな落とし穴がありそうです。

生産性を高めて働く場から人を追い出していくよりも、多くの人の働く場を確保していく事のほうが大事ではないかという佐々木さんの指摘は含蓄に富んでいます。
「仕事」とは何かという本源的な問いかけでもあります。

最近、「儲かる農業」がもてはやされていますが、その議論には私は与したくありません。
儲かる農業ではなく、暮らせる農業に、もう一度、戻るべきではないかと思います。
さらにいえば、そろそろ「儲ける」などと言う発想は捨てていいのではないでしょうか。
そのことは、「消費する経済」から「生産する経済」への転換に繋がります。
そしてそれは、たぶん働くことの意味を一変させるでしょう。
働くことは稼ぐことや儲けることではなく、生きること、暮らすことになっていくように思います。

ネットで調べたら、同じ特集記事に、「主業農家の平均農業所得は約420万円」というデータも出ているようです。
自然豊かな地方であれば、420万円なくても暮らしは成り立つはずです。
私たちは、なぜかお金がないと暮らしていけないとか、生産効率は高めなければいけないとか、奇妙な思いに縛られていますが、そこから自由になれば、世界は全く違って見えてきます。
みんながお金の呪縛から抜け出せば、今の経済は成り立たなくなるでしょう。
恐慌どころの話ではなく、まったく想像もできないことになるでしょう。
想像できないからみんな踏み切れませんが、踏み切ったら意外となんでもないのかもしれません。
そう思いだした人たちが、少しずつ増えてきているように思うのですが、どうでしょうか。

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