« ■節子への挽歌619:見る人もいないたくさんのアルバム | トップページ | ■問題の立て方 »

2009/05/13

■ルポライターの仕事を支えることの大切さ

一昨日、ノンフィクションを手がけるライターの方の取材を受けました。
取材が終わった後、少し雑談をさせてもらいましたが、最近はルポ記事などを掲載する雑誌が次々と廃刊になっているので、仕事が難しくなってきているのだそうです。
私の友人にも同じ仕事をされている人たちがいますので、私もそうしたことは何となく感じていたのですが、その人と話していて、しっかりしたルポルタージュが発表される活字媒体が減少することの意味をあまり考えたことがなかったことに気づきました。
発表の場がないということは、現場をしっかりと実査し評価する活動がなくなっていくことに通じます。
このことの意味は大きいです。
ますます社会は見えなくなり、マクロな視点でしか記録されなくなりかねません。
現場には必ず個々の表情がありますし、そういう現場をルポしているライターの表情ある目は、マクロ的な観察や報道からは違う、現場のメッセージを伝えてくれます。
そういうものがなくなっていくと、世界は平板なものになりかねません。

そういえば、私自身も最近は雑誌をほとんど読まなくなってしまいました。
若い頃は、毎月10冊程度のさまざまな雑誌を講読していましたが、今は、あまりメジャーでないものを数冊読んでいるだけです。
週刊誌は1冊も読んでいません。
ルポルタージュなどのノンフィクションは単行本として読むようになってきていますが、書き手の立場から言えば、最初から単行本を目指しての取材や原稿書きは大変なようです。
おそらく経済的にも引き合わないでしょう。
取材費さえ取り戻せないことも少なくないかもしれません。
それに比べ、雑誌に掲載していったものを、それがたまった段階で本にして残していくという方法は、書き手にとってはありがたい仕組みでしょう。

このブログを書きだしてから、気づいたことがあります。
たとえば昨日の小沢さん関連の2つの記事ですが、多分数日後であればかなり違った書き方になるでしょう。
ましてやまとまった本を意識して書きなおすとしたら、まったくと言っていいほど違う表現になると思います。
全体が見えるにつれて、文章は次第に小賢しくなっていくものです。
極端に言えば、真実から遠いものになりかねません。
ある事件に出会ったときの第一印象、それこそが現場の真実を伝える出発点だと私は考えるようになりました。
もしそうならば、中途半端であれ、できるだけ時間を経ずに雑誌などで書いているものを読んだ方が現実に近づけるように思います。
単行本として編集されたものよりも雑誌掲載記事のほうが、いろんな意味でライブなわけです。

「反社会学講座」(ちくま文庫)という、とても面白い本があります。
そこに出ていたのですが、60代以上の人は最近新聞を読む時間が急増しているのだそうです。
なんと1日40分です。
その一方で新聞以外の活字を読む時間は15分前後です。
もう少しみんなが雑誌を読む時間を増やしたら、ルポライターの人たちの仕事を支援できるかもしれません。
そう思いだしたのですが、ではどの雑誌を講読しようかと思うと魅力的な雑誌が思い浮かびません。
まあ、できるだけ早く書店に行って、読めそうな雑誌を探してこようと思います。

|

« ■節子への挽歌619:見る人もいないたくさんのアルバム | トップページ | ■問題の立て方 »

文化時評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■ルポライターの仕事を支えることの大切さ:

« ■節子への挽歌619:見る人もいないたくさんのアルバム | トップページ | ■問題の立て方 »