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2009/05/08

■節子への挽歌614:何かしていないと心が落ち着きません

初夏のようだった数日前とはうってかわって肌寒い日が続いています。
あまりけじめのない連休を過ごしていたせいか、ここに来てちょっと疲れが出てきてしまいました。
予定を変えて、今日は自宅で少し気を抜こうと思い、予定をすべてキャンセルしてしまいました。

考えてみると、節子がいなくなって以来、ゆっくりとした時間を過ごしたことがないような気がします。
何もしないでぼんやりしていたり、自宅でだらっとしていることはあるのですが、積極的な意味で「ゆっくりした」気分にはなれていないのです。
心を通い合わせた人と一緒にいることの意味はとても大きいのです。
これは、その人がいなくなってはじめてわかることかもしれません。

人は、所詮は一人で生まれてきて、一人で死んでいくという人がいます。
教団宗教には、洋の東西を問わず、そうした思想が色濃くあります。
仏教も同じです。
本質的に人間は孤独だというのです。
そう思えばこそ、煩悩から離脱できるというのですが、そうやって離脱することに何の意味があるのか。
仏教書を読んでいて、私が一番抵抗を感ずるのは、そうした「孤独観」です。

私は、人はいつも一人ではなく、みんなの中に生まれ、みんなと共に育ち、みんなとつながりながら死んでいく、と思っています。
煩悩があればこそ、人生は豊かになっていくのです。

2人で生きることは、生きるための問題を複雑化させます。
2人の主体性を調整するための努力も必要ですし、自分の主張を断念しなければいけないことも少なくないでしょう。
しかし、ひとたび、そうした生き方の良さを体験してしまうと、その煩わしさは煩わしさではなくなり、喜びに変わります。
そして、人は孤独ではないことを実感できるのではないかと思います。
節子は最後まで決して孤独ではありませんでした。
そうしたことが、なぜ仏教を初めとした宗教に理念化されなかったかはとても興味ある問題です。
しかも、最近はむしろそうした孤独観を強調した仏教が人気だということに、大きな違和感を持ってしまいます。

話が大きくなってしまいましたが、一緒に人生を歩んでいた節子と一緒に、つまり心を完全に開いたまま、だらっとしている時間が持てないことが、私の最近の疲労感の原因かもしれません。
だとしたら、これからずっと心やすまることがないということでしょうか。
それはちょっと辛いなと思いながら、いま朝から4杯目の珈琲を淹れました。
さて、次は何をしましょうか。
節子、あなたがいないと何かしていないと心が落ち着きません。
困ったものです。

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妻への挽歌04」カテゴリの記事

コメント

ある人に言われたことがあります。
「孤独観」を強く感じてしまう人は「自立していないのだと・・・」
私は、子どもの頃から孤独と向き合ってきました。
今は、少し成長しましたが・・・。

佐藤さんがおっしゃる「人はいつも一人ではなく、みんなの中に生まれ、みんなと共に育ち、みんなとつながりながら死んでいく、と思っています。」・・・そうできたら幸せだとは思いますが・・・。
人は本能的に一人ぼっちだと感じているから、人との関りを大切にしようと思うのではないかと思うのですが?

とても難しいですね。
「命」と共に在る私の生涯のテーマでもあります。

みんなとつながりながら死んでいけたら・・・いいなぁ~。
そしたら、命を愛おしむ人でいっぱいになるかもしれませんね。

  

投稿: りんりん | 2009/05/09 00:41

りんりんさん
ありがとうございます。

孤独と孤独観は、たぶん違うのだろうと思います。
私は先入観ではなく、自分の生の素直な感性に基づいた実践を大事にした生き方をめざしています。
なかなかそうはならないのですが。

「いのちのつながり」は、私の67年の人生の中で、強く実感していることです。
人の生命に限りません。
庭の草花やアフリカの動物、海の魚、あるいは過去や未来のたくさんの生命、
みんなつながっている感覚があるのです。
まあ、いささかおかしいのかもしれません。
華厳経にある「インドラの網」の世界の中では、孤独はありえないと思うわけです。

>そうできたら幸せだとは思いますが・・・。

私の生き方は、そうできたら幸せと思ったら、そう生きることなのです。
できるかどうかはやってみなければわかりませんが、最初からできないとは絶対に思わないようにしています。
そして、人との関りを大切にすれば、決して孤独ではない自分に気づくような気がします。
少なくとも私はそうでした。
最近、自殺のない社会づくりネットワークに関わりだしたのも、その思いからです。

>みんなとつながりながら死んでいけたら・・・いいなぁ~。

みんなとつながりながら生きていけば、それは実現できるかもしれません。
なぜなら、人はみんな1人よりも2人が楽しく、であればみんな命を愛おしんでいると、私は確信しています。

まあ、それが正しいかどうかはわかりませんが、そう思っていると生きやすいからだけなのですが。

また一度、ゆっくりとお話できればと思っています。
ありがとうございました。

投稿: 佐藤修 | 2009/05/09 18:22

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