■節子への挽歌619:見る人もいないたくさんのアルバム
節子
昨日、イランのシラーズの写真を探そうと写真のアルバムを久しぶりに開きました。
たくさんの写真がアルバムにきちんと整理されていました。
私は写真を撮るのが好きでしたが、整理は全くしませんでした。
写真の整理は節子の仕事でした。
わが家にはたくさんのアルバムが残されています。
しかし、このアルバムはいったい誰が見るのでしょうか。
そう思うととても悲しい気持ちです。
私は過去にほとんど興味がないので、写真を見る文化はありません。
これは今に始まったことではないのですが、いまはなおのこと、節子の写真を見る元気もありません。
たぶんこれからもずっとそうでしょう。
娘たちも、私に似て写真にはあまり興味を持ちません。
私以上に過去に関心がないようにも思えます。
そう考えていくと、この膨大な写真は結局はゴミでしかないのです。
写真だけではありません。
ビデオ映像や思い出の記念品なども、そのほとんどはおそらく残された者には何の価値もないのでしょう。
何のために撮ってきたのでしょうか。
おそらくそれは老後の夫婦生活ためだったのです。
しかしそれはもう私たちにはなくなってしまいました。
ですからもはや意味のない存在なのです。
節子が残したものの一つに日記帳があります。
節子は日記が好きでしたので、子どもの頃からの日記がきちんと残されています。
まさに中学生の頃からの日記です。
私との出会いも日記に残されているでしょう。
節子は、子ども時代の日記も含めて、私にすべて公開していました。
不思議なほど、節子は私にはあけっぴろげでした。
おそらく私もまたそうだったからだと思います。
私に出会う前に、節子が好きだったボーイフレンドの話も日記には出てくるでしょうし、私の第一印象も日記に書かれているかもしれません。
節子はある時までは、記録大好き人間でしたので、いろんなことが記録されているはずです。
私と会うまでは几帳面だったようで、こづかい帳まで残っているのです。
私と結婚してからは、家計簿などつけたことがないのが不思議なのですが。
私のずぼらさが影響したのかもしれません。
まだまだ節子が残したものはいろいろあります。
さてどうしましょうか。
私が元気なうちに捨てなければいけないのでしょうが、今はまだ捨てる気にはなれません。
捨てられないでいるうちに、私がいなくなってしまうかもしれません。
そういえば、節子は病気になってから、身辺整理をしだしました。
それを私はやめてほしいと頼んでいましたが、節子の気持ちが最近よくわかるようになりました。
節子はいつも私よりも先を歩いていたのかもしれません。
私よりも年は下でしたが、私にとっては人生の先生でもありました。
残されたたくさんの写真や日記帳などを前にすると、そのことがよくわかります。
たぶん誰にもわかってはもらえないでしょうが。
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