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2009/05/18

■ゼロサムゲームの世界の中での過剰対応の危険性

新型インフルエンザの患者数が日本でも100人を超えました。
きちんと検査したら、その数倍はいるという意見もあります。
学校が1週間休校になるなどという動きも出ています。
それにしてもどこもかしこも大騒ぎです。
騒ぎすぎではないかとある人に話したら、用心にこしたことはない、と怒られました。

でも、そうでしょうか。
みんな大切なことを忘れています。
それは、あることに限られた資源を注入すれば、必ずどこかで誰かがしわ寄せを受けるのです。
いささか極端のことを言えば、いまの新型インフルエンザへの大騒ぎでの対応の影響で、だれかが十分の対応を受けられずに、病気を悪化させ、差異枠の場合は生命を落としていることがないとは限りません。
まあそれは考えすぎだとしても、医療資源や検疫資源は限られていますから、どこかで被害を受けている人がいることは間違いありません。

その反面で、新しいことをやるわけですから、誰かが大もうけすることも間違いない事実です。
念のために言えば、マスクが跳ぶように売れているのでマスクを売っている人が儲ける、などという話ではありません。
もっと大きなところで、誰かが儲けているはずです。
と言うのは、それがこの半世紀の資本主義の本性だからです。
ビジネスとは市場を創造すること、つまり「問題(不幸)」を起こすことなのです。
アメリカの映画の観すぎではないかといわれるかもしれませんが、映画で描かれるようなことは実際にはどこかで行われているような気がします。
「事実は小説より奇なり」なのです。

いずれにしろ、私たちは限られた資源の中で生きています。
それを忘れてはいけません。
政治の世界もそうです。
まあ、最近の私たちは「朝三暮四」の話のサルのレベルに落ちていますから、まあ新型インフルエンザもがんばって十分に対策すればいいでしょう。
豚インフリエンザや鳥インフルエンザが最近、ヒトにうつるのは、もしかしたら私たちがサルに近づいているからかもしれません。
そう考えるといろんなことが納得できます。
いや、いささか失言が過ぎたかもしれません。
困ったものです。

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コメント

貴方のおっしゃるとおり不安材料を針小棒大にして、市場を創造しその差益を取る。それが最近の経済工学の常套のように感じます。生老死の不安を材料に様々のサブリメントや美容剤のコマーシャルがテレビで流れています。
インフルエンザもコマーシャルペースで右往左往するより、自分自身の身体の免疫機構を造る方が確実だと思います。
私はインフルエンザの注射をしたこともなく、サブリメントも飲みません。
ある時、気が付いたら他界していて、千の風に乗っているかもしれません。死は生の延長線上にあり、親しい人の心の中にさりげなく住み込んでいるかも? 兎に角、限りある地球の中でパニックが起きない様にするなら、自分の事より他人のことを優先する気持ちが無ければならないと思います。

投稿: maron | 2009/05/19 03:34

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