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2009/05/25

■節子への挽歌631:関係の自立

節子
今日は、節子が嫌いで、私が好きな、いささか「ややこしい話」です。

今村仁司さんは、「貨幣とはなんだろうか」という本の中で、人間関係の媒介形式が崩壊した時にどういうことが起きるのか」について、アンドレ・ジイドの「贋金つくり」やゲーテの「親和力」を題材にして語っています。
私は、どちらも読んだことがないのですが、いずれにおいても、家族を軸にした物語が展開されているようです。
今村さんが人間関係の媒介形式と言っているのは、たとえば「夫婦」であり「親子」です。
節子と私は、節子が退出するまでは、真実そのものの夫婦でしたし、娘たちとの関係においても、間違いのない親子でした。
たとえばその夫婦関係や親子関係のなかに、ある意味での「裏切り」、夫婦でいえば浮気とか不倫、親子でいえば家出とか騙しあいが起こることを、今村さんは「媒介形式の崩壊」と呼ぶのですが、それによって「贋物の夫婦や親子」が生まれてくるわけです。
しかし、本物と贋物の違いは、さほど明確ではないように思います。

この本の主題は、貨幣とは何かであり、貨幣にはそもそも「本物と贋物」があるのかという問いかけがあるように思います。
私はお金はすべて「贋物」であると考えていますので、偽札に対してもさほど違和感がありません。
北朝鮮が国家で偽札をつくっているのと、米国が大枚のドルを世界に垂れ流しているのと、どこが違うのか、私にはほとんど理解できません。
ちなみに、私が村長を務めていた(務めている?)コモンズ村の通貨である「ジョンギ」は、みんなに偽札作りを推奨しています。

時評のような内容になってきてしまいましたが、今日は挽歌のつもりで書き出したのです。
でもまあ、たまには、どちらでもいいような記事があってもいいでしょう。
それがこのブログの特徴と言っているわけですから。

私と節子の夫婦関係という「媒介形式」は節子がいなくなった今も、まだ存続しています。
しかし、「関係」は存続していても、お互いが彼岸と此岸とに離ればなれになってしまい、会うことができなくなってしまった場合、どうなるのでしょうか。
今村さんの本はいささか難解なのですが、その本を読んでいるせいか、そうした「さらに難解な問題」を考えたくなってしまいました。
媒介すべき主体の一方がいなくなったのに「媒介関係」があるということは、媒介関係が自立しているということです。
私たちは、「関係」は、その両側に「要素」があってこそ成り立つと思いがちですが、「関係」があってこそ「要素」が意味を持つことは少なくありません。
もしそうなら、要素がなくても「関係」が存在することは十分考えられることなのです。

媒介としての貨幣を考えてみるとわかるのですが、最近では、貨幣は単なる媒介ではなく、それ自体が目的や主体になってきています。
「関係」が自立し、「意味の世界」が実体を影響しだしたのです。
それが、社会を壊しだしているわけですが、では人間関係の媒介関係の場合はどうでしょうか。
自立してしまった「関係」のもとで、夫婦を演じたり親子を演じたりしているような話もあるようですが、「関係」がそれぞれの生き方を壊してしまっている例も少なくありません。
いえ、「創造」と「破壊」は、コインの裏表でしかなく、同じものなのかもしれません。

話が拡散しそうですので、しぼりましょう。
全く無縁に育っていた私と節子が、ある時出会って、夫婦になった。
そこで私たちは、2人とも人生を一変させたわけです。
それまで存在しなかった「媒介形式」が生まれたからです。
今から考えると、私たちは2人とも、「夫婦」という新しい生き方に自らの、おそらくほとんどすべてを投げ入れました。
そこで、関係の「主役」になれたのです。

貨幣の本を読んでいて、こんなことを考える読者は私くらいかもしれません。
しかし、こうした話は、私の大好きな世界なのです。
長くなりそうなので、今回はこの辺でやめますが、いつか続けたいと思います。

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