■節子への挽歌634:私の周りの人間関係が変わってしまいました
節子
最近、私のブログやホームページから、私の元気が少し感じられだしたようです。
それを読んだ人たちが、もう大丈夫と思うのか、会いに来てくれるのです。
節子がいなくなって、いろいろな変化が起こりましたが、予想していなかったのは、私の交友関係が変わってきたことです。
それも節子との共通の友人知人ということではありません。
節子とは関係のない、私の友人知人との関係が微妙に変わってきたということです。
人は、一人では生きていませんが、人のつながりというのは、広範囲に影響しあうものだということを実感させられました。
たとえばこういうことです。
伴侶を失った後、何となく疎遠になった友人知人がいます。
何かがあったわけではないのですが、お互いに何となく会う気がしなくなったのでしょう。
そこにはそれなりの理由があるのでしょうが、会わないことで人間関係は変化します。
逆に、伴侶との死別を意図的に意識することなく、以前と同じように付き合ってくれる人もいますが、私自身が変わっていますので、たとえその人が前と同じように振舞っても、これもまた人間関係に微妙な変化を起こさせるのです。
自らの「半身」が削がれただけではなく、自分を取り巻く世界のバランスが崩れてしまうのかもしれません。
私自身の生きる基準が変わってしまったことが、その大きな理由でしょうが、気がついてみたら世界は一変してしまっていました。
節子がいなくなった後に、出会った人や世界もありますが、それらはなにかとても白々しくて、まだリアリティがないというか、それ以前の世界とうまく整合しないのです。
まあ、こんな理屈っぽいことを考えるのは私くらいかもしれませんが、これはただ理屈っぽく書いただけであって、実際にはシンプルな、もっと生々しい実感があるのです。
おそらく私と同じような体験をされた方は、私同様に友人知人との関係が大きく変わってしまっているのではないかと思います。
非日常的なことが起こると、人の素顔が見えてきます。
おそらく節子を見送るという、非日常を体験した私の素顔は、多くの人に見えてしまったことでしょう。
私自身にも、私が意識していなかった自分の素顔がいろいろと見えてきました。
そこには、私自身があまり好きになれない自分もいます。
でもまあ、そんな私の素顔を見ながら、会いに来てくれる人がいるのは感謝しなければいけません。
節子がいたおかげで、私はたくさんの人たちとのつながりを育てることができました。
その多くは、節子がいなくても育ってきたつながりだと思っていましたが、そうではないことに最近気づきました。
人のつながりは、とても微妙です。
人は、一人では生きていないことを、最近改めて痛感しています。
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