« ■節子への挽歌611:3人のミュージシャンの出前コンサート | トップページ | ■節子への挽歌612:この頃、ちょっと後悔することが多いのです »

2009/05/06

■危険から逃げる社会と危険を克服する社会

新型の豚インフルエンザの情報が連日、マスコミから大量に放出され、パンデミックの危機を煽っているような気がしてなりません。
もちろん十分な対策をとるために情報を積極的に出すことは必要ですが、その出し方やマスコミの取り上げ方にどうも扇動的なイメージを感じます。
「パンデミック」という言葉も、何か不気味さを感じさせます。
流行を食い止めるのは大切ですが、その反面で何かが犠牲にならなければいいのですが。

発熱症状のある患者が医療機関から診療を拒まれるという状況がすでに発生しています。
東京都の発熱相談センターには、すでに100件近い報告が寄せられているそうです。
海外への修学旅行の中止や延期も報道されています。

危機管理体制が整っている証拠という見方もできるかもしれませんが、どこかに「危険から逃げる社会」を感じてしまいます。
危険から遠ざけた環境に育った子どもたちのひ弱さや「無菌社会」の落とし穴が話題になったこともありますが、どこかそれに似たものを感じてしまいます。

こうした不測の事態に対しては、「逃げる」か「立ち向かう」かですが、いまの対応はどちらでしょうか。
報道を見ていると、どうもこれまでは危険から逃げてきたのではないか、という気がします。
なぜそう思うかといえば、これまでもサーズだとか鳥インフルエンザだとか、同じような体験があったように思いますが、その体験があまり活かされずに、同じような慌て振りをしているように感ずるからです。
特にそう感じたのは、医療機関の対応に関する厚生労働省の方針です。
テレビでしか見なかったので誤解があるかもしれませんが、一般の医療機関では対応しないことのほうが流行を防止するというようなメッセージを感じました。
机上論では間違いなくそうでしょう。
しかし、実際の現場の対応を考えるとそんな話は絵空事でしかありません。
現場から発想して取り組んでいる、たとえば仙台市のように、現実に立脚して、危険に立ち向かう真剣さを感じません。
現場に立脚すれば、危機を煽り立てることなど考えられません。
現場での選択肢は、危機に立ち向かうしかないからです。
そして、その体験は必ず体験知として社会に蓄積されていくでしょう。

今回の豚インフルエンザ流行の報道をみていて、「危険から逃げる社会」と「危険を克服する社会」があることに気づきました。
それはもしかしたら、「危険から逃げる企業」と「危険を克服する企業」というように、「社会」の部分を「企業」や「行政」や、「生き方」に変えてもいいでしょう。

私自身、若い頃は、危険を克服する生き方を少しは意識していましたが、最近はどうも、危険から逃げる生き方だけになっているのではないか、そんなことを気づかされています。
生き方を変えなくてはいけないと思いなおしました。

|

« ■節子への挽歌611:3人のミュージシャンの出前コンサート | トップページ | ■節子への挽歌612:この頃、ちょっと後悔することが多いのです »

社会時評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■危険から逃げる社会と危険を克服する社会:

« ■節子への挽歌611:3人のミュージシャンの出前コンサート | トップページ | ■節子への挽歌612:この頃、ちょっと後悔することが多いのです »