« ■節子への挽歌613:私の生き方を2度変えさせた節子 | トップページ | ■節子への挽歌614:何かしていないと心が落ち着きません »

2009/05/07

■手賀沼に「おしゃれな」なカフェはいりません

コメント欄に、ちょっと書いたことですが、もう一度ここに書かせてもらいます。私の住んでいる我孫子市には手賀沼があります。
沼というので泥臭いイメージを持つかもしれませんが、とても安堵する風景を私たち住民に与えてくれます。
写真集手賀沼というサイトもありますので、よかったら見てください。

その手賀沼にある手賀沼公園の湖畔に沼に張りだす形で、おしゃれなウォーターカフェがあったらいいのにと前から思っていました。
思っているだけではダメなので動き出さなければいけませんが、その話をある人に話したら、その人がこういうのです。
私はこの我孫子が大好きです。
それは土と水と緑のにおいがするからです。
手賀沼の湖畔には着飾ったおしゃれなカフェはつくってほしくありません。

初めて異論をぶつけられました。
そして、ハッと気づきました。
「おしゃれなカフェ」というのは、そういうイメージなのだと。
安直に話していたことを反省しました。
私も、土と水と風が生き生きしている空間を描いていたのですが、どこかにモダンな小奇麗さもイメージしていたかもしれません。
その異論に対して、いささか苦しい回答をしましたが、実はこの異論がこれまで私が出会った一番の賛意なのかもしれないと思いました。
我田引水に考えるのが(ポジティブシンキングともいいます)、私の長所なのです。

「おしゃれ」というのは便利な言葉ですが、誤解を招きがちな言葉です。
注意して使わないといけません。
多義的なのに、反論しにくい言葉があります。
そうした言葉は、議論を封じ込めがちです。
「おしゃれ」もそうした言葉の一つです。
私が一番嫌いな言葉のはずだったのに、自分がそうした言葉を安易に使っていることに気づいたのです。

手賀沼に必要なのは、「おしゃれなカフェ」ではなく、「手賀沼らしいカフェ」です。
それがどんなカフェなのか、みんなで話し合うような場をいつか実現したいと思います。

|

« ■節子への挽歌613:私の生き方を2度変えさせた節子 | トップページ | ■節子への挽歌614:何かしていないと心が落ち着きません »

コメント

 ■手賀沼に「おしゃれな」なカフェはいりません・・・を読んで。

 ふるさとのない私のふるさとになる我孫子市手賀沼が「おしゃれなカフェ」ではなく人の臭いのするカフェに・・・。
。。。手賀沼に『カフェ』は不似合いだと思えてなりません。 

 古いもの、自然に汚れたものには人間の臭いがします。
たくさんの人達が関ってきた歴史がその場所の臭いでは・・・?
私は石碑の前で笛を吹きます。あそこに立っていると釣りを楽しむ家族やアヒルに餌をあげる大人や子どもを見かけます。
ボート屋さんの板がきしむ音を気にも留めず子どもが大はしゃぎをしています。
私も学生時代や子どもが小さい時にボートに乗りました。
ひっくり返ったボートの残骸を汚いと思うか、皆が乗ったボートが壊れちゃったんだね。と見るか・・・。
それを排除してしまうのではなくて、整理をしていまあるままの手賀沼を残すことは出来ないのでしょうか?
温泉が出来、家が立ち並び親水広場から見た向こう側の風景は一変してしまいました。調和、調和といいながら景観を変えてしまう。
私は、これ以上手賀沼の風景を壊して欲しくありません。

いかなる形であっても『カフェ』はいりません。
おむすび が似合う我孫子であって欲しい。
それが私の願いです。


投稿: りんりん | 2009/05/08 23:41

りんりんさん
ありがとうございます。
ここはちょっと反論です。

思いはよくわかりましたが、それでもやはり私は、私の住んでいるところでもある手賀沼に、ちょっと休める、あるいは少しそこで長居できる、場がほしいです。
それが私には、水面に突き出したカフェなのです。
京都の古い庭園や寺院にあるおしゃれなお茶屋のように、あるいは自然が眺望できる海辺や渓谷にあるような、自然や環境を活かしあうようなカフェです。
喫茶店でもレストランでもありません。

日本の自然はたくさんの生活者が育ててきました。
観光業者は、たとえばボート屋さんは、それを商業に使っているだけかもしれません。
自然景観や地域の文化は、昔は住民たちみんなが育ててきましたが、いまはせいぜいが「景観形成市民会議」です。
ですから、そこには生活者の息吹が息づきません。
ただの「景観」です。

「カフェ」という言葉がモダンなイメージを与えるのであれば、「スワンボート」はどうでしょうか。
導入時は「おしゃれ」だったのかもしれませんが、私には大きな違和感があります。
いま、手賀沼でおにぎりは食べられますが、美味しいコーヒーも飲みたいことがあります。私は自動販売機は原則として使いませんので、ボート屋さんのお店でしか買いませんが、いささか問題がないわけではありません。

「壊れた窓」という理論があります。
壊れたものや汚いものをそのままにしておくと、まちは荒れていくという話です。
10年前の手賀沼公園はどうだったでしょうか。
最近は少しよくなりましたが、それでも「放置されたまま」の「残骸」は、手賀沼のイメージに影響を与えます。
ベンチに座って、持参したお茶を飲んだこともありますが、目の前の湖上にゴミが散乱しているのはどうも気になります。
もっとも最近はかなり綺麗になりましたが、自然は決して「汚さない」ですから、汚すのは人間です。
ゴミを捨てたくなる人が出ないとは限りません。

手賀沼に『カフェ』は不似合いだという発想ではなく、手賀沼にお似合いのカフェはどんなものだろうかと、私は考えたいのです。
近くにお茶屋さんもありますが、いまは駅前に喫茶室を移してしまいました。なかなかおしゃれなカフェになりました。

>温泉が出来、家が立ち並び親水広場から見た向こう側の風景は一変してしまいました。
>調和、調和といいながら景観を変えてしまう。
>私は、これ以上手賀沼の風景を壊して欲しくありません。

ここはかなり同感です。
ただそれは調和や人の働きかけを考えてこなかった結果かもしれません。
手賀沼の風景は、そのままにしていたら壊れていきます。
シンボルだったポプラがなくなったのは残念ですが、やはりそれは保全というか、ポプラの寿命に対する備えがなかったために起こったことです。
我孫子駅北口の見事な桜もそうでした。
だからこそみんなで育てていくことが大切です。

りんりんさんと考えはそう大きく違わないのかもしれませんが、いろいろな意見を出し合いながら、みんなで考えていくことができれば、と思います。
おむすびが似合う我孫子を望む人も、「カフェ」のある手賀沼を望む人も一緒になって、考えていけば、きっとみんなが納得できる道があるように思います。
そういう話し合う場が、まずは大事なように思います。

また一度、お話できるとうれしいです。

投稿: 佐藤修 | 2009/05/09 18:41

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■手賀沼に「おしゃれな」なカフェはいりません:

« ■節子への挽歌613:私の生き方を2度変えさせた節子 | トップページ | ■節子への挽歌614:何かしていないと心が落ち着きません »