« ■利他精神に基づいた超民主主義への期待 | トップページ | ■節子への挽歌616:苦楽を共にしていれば相手の痛みはわかる »

2009/05/09

■節子への挽歌615:節子、書くことがなくなってしまいました

節子
最近、いささか平板な生活をしているせいか、今日はパソコンの前に座ったのですが、書くことが思い浮かびません。
先ほどから、パソコンの前の節子の写真を眺めているのですが、この写真はあまりよくないなとか、闘病中なのにこの時の節子は明るかったな、などとどうでもいいことしか思いつきません。
まあ、そこから書き出すと書けるのでしょうが、なんだかあまり明るい話になりそうもないので、書く気が起きません。
今日は久しぶりに雨が上がり、気持ちのいい日になりましたので、明るい内容を書きたいという思いが強いのです。

娘たちに、何か書くことはないかといったら、そういう時はいつも節子に相談していたのにね、と皮肉られました。
そうなのです。
私は、仕事などで知恵が出なくなったリ、行き詰まったりした時は、いつも節子に相談していました。
相談したからといって節子が良い知恵を出してくれるわけでもないのですが、ちょっとした雑談や、時には感想が、壁にぶつかっていた私の発想を解き放ってくれました。
人は、話しながら考えるものだと、私はいつも思っていますが、とりわけ心開いて話す節子の存在は、私には自らの発想を引き出すためにはとても効果的だったのです。
節子は。私とは全く違った論理回路と基礎情報を持った人でしたから、ともすると袋小路に入りがちな私の発想を柔らかにしてくれました。
おかしな言い方ですが、私たちはお互いの思考回路をも、自分のものとしてシェアできていたように思います。
それに長年一緒に生活していると、相手の心情が自然と伝わってきて、的確なヒントをお互いに与えることができるようになります。
ですから、相談しなくても、ヒントになるような一言があることもあるのです。
壁にぶつかっていると、お茶でも飲まないと誘ってくれたのも、そうしたことの一つです。

そういえば、最近、自宅での発話数は節子のいた頃に比べると大幅に減っているように思います。
これはよくないことです。
幸いに娘たちが同居していますので、彼女たちと話すことは少なくないのですが、そうそう話が合うわけでもありません。
そういえば、彼女たちも自宅での会話数は少なくなっているはずです。
これはいささか問題ではあります。
少し考えなければいけません。

ところで、残されたのが私ではなく、節子だったらどうだったでしょうか。
わが家の家族の会話数は、私がいた時よりも増えるかもしれませんね。
そして節子にとって、今頃はもう、私は過去の人になっているかもしれません。
まあ、毎朝、お経はあげてくれるでしょうが。
節子の写真を見ていると、そんな気がしてなりません。
いやはや、やはり明るくない話になってしまいました。

|

« ■利他精神に基づいた超民主主義への期待 | トップページ | ■節子への挽歌616:苦楽を共にしていれば相手の痛みはわかる »

妻への挽歌04」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌615:節子、書くことがなくなってしまいました:

« ■利他精神に基づいた超民主主義への期待 | トップページ | ■節子への挽歌616:苦楽を共にしていれば相手の痛みはわかる »