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2009/06/14

■節子への挽歌651:手持ち無沙汰の1日を過ごそうと思います

節子
先週はちょっとばたばたしてしまいました。
来週もまたいろいろと予定が込んでいるのですが、今日はのんびりと1日を過ごそうかと思います。

節子がいなくなってからの1年は、何かをするでもなく、しないでもなくの1年でした。
私にはほとんど記憶のない1年です。
昨年末から活動を持続的に再開しましたが、精神的に軌道に乗ってきたのは4月くらいからでしょうか。
4月は少し活動をしすぎてしまいましたが。

節子がいなくなってから、私がやることといえば、自分の活動だけです。
ですから、実は時間はタップリあります。
短期的には「時間破産」状況に陥りますが、まあ間に合わなければ、明日にのばせばいいだけの話です。
時間の取立てはありませんし、それほど大きな約束はしていませんので、どうにでもなります。
せいぜいが、間に合わなければ一晩徹夜すればいいだけの話です。

私のホームページを読んだ人が、私はきっと「多忙」なのだろうなと考えてくれますが、実のところは時間はタップリあるのです。
節子と一緒に過ごす時間がなくなったのが、その理由です。
ということは、節子が一緒にいた頃には、節子との時間がいかに多かったかということでもあります。
月に数回は、節子と一緒に旅行などに出かけていましたし、節子と一緒にお茶を飲んだり、夫婦喧嘩をしたり、いろいろとありました。
それが全くなくなったいま、私の時間はタップリあるわけです。

手持ち無沙汰の時さえ、あるのです。
節子がいたら、そんな時には声をかけて必ずどこかに出かけました。
私の人生の時間には、暇や退屈さは皆無だったのです。
節子も、いつも動いている人でしたから、暇や退屈さとは無縁の人でした。
私たちは、いつも何かをしていました。

節子がいなくなってから、はじめて私は「手持ち無沙汰」を体験しました。
そんな時には、庭の花を見たり、空の雲を見たりすればいいと思うのですが、それさえができないのです。
なにか無性に空虚な時間の前にさらされているようで、その時にはたとえ何をやっても「手持ち無沙汰」感は消えません。
奇妙に不安で、罪悪感さえあります。

今日はどんよりした曇り空です。
考えてみれば、やるべきことは山のように積まれています。
でもまあ、今日はそれを忘れて、「手持ち無沙汰」を嘆きながら1日を過ごそうと思っています。
半身を削がれた者にとっては、暇さえも堪能できる時間ではありません。

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