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2009/06/25

■節子への挽歌662:愛する人を失うことで試される自分の人間性

節子
昨日はいろんな人から電話がありました。
私が自宅にいるということが伝わったのでしょうか。
前にもこんなことがあったような気がします。

深刻な相談もありましたが、うれしい電話もありました。
Kさんからの電話で、心配していた大腸がんは内視鏡でうまく摘出できたという報告でした。
Kさんは節子のことも、そして私のこともとても気にしてくださっていた方です。
元気そのものだったKさんから、がんの話を聞いた時は驚きましたが、うまく摘出できてホッとしました。
退院してすぐ電話してきてくださったのです。
朗報は人を元気にしてくれます。
今日、Kさんに会うつもりですが、ほんとうによかったです。

Kさんは、節子が闘病中、ずっと祈っていてくださった方です。
そのお返しに、毎朝の節子への読経の後、Kさんの安寧を祈りました。
節子も祈ってくれていたでしょう。
自分がどんなに辛い時でも、節子は他者への思いやりを失わない人でした。
私が節子に惚れきっているのは、そうした節子を知っているからです。

Kさんの祈りには報えられませんでしたが、Kさんへの祈りは報われました。
感謝しなければいけません。

もっとも、祈りは、祈ることそれ自体が目的ですから、報われるとか報われないとか、ということはありません。
祈りはいつも報われているのです。
節子への、たくさんの人たちの祈りは、必ずや節子に伝わっているはずです。
節子は、そうしたたくさんの「祈り」に支えられて、彼岸へと旅立ったのです。

Kさんの節子への祈りが報われなかったという表現は撤回します。
Kさんだけではなく、たくさんの人たちが、それも思いもかけぬ人が、節子のために祈ってくれたことを私は知っています。
もちろん、すべての人が祈ってくれたわけでもありません。
不思議なことに、そうしたことは当事者になると、何となくわかるのです。
言い換えれば、言葉の後ろが見えてくるということです。
それは、とてもいやなことです。
被害妄想は、そういう形で始まっていくのでしょう。
そういう自己嫌悪に陥るようなことを何回か味わっています。

愛する人を失うことは、まさに自分の人間性が試されることでもあるのです。
それに耐えていくことは、それなりに辛いことでもあります。
そんなわけで、私は時々、落ち込んでしまうわけです。
困ったものです。

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