■節子への挽歌644:亡き人を覚えていることが家族の役割
いつものように早朝に目が覚めました。
見るでもなくいつもの習慣で、寝室にあるテレビのスイッチを入れました。
節子がいなくなってから、テレビを寝室に持ち込み、眠れない時にかけています。
必ずしも見るわけではないのですが、人の声がすると落ち着くのです。
「こころの時代」で、中野東禅さんという方がお話されていました。
心に響くお話で、ついつい聴き入ってしまいました。
中野さんは、竜宝寺というお寺のご住職で、仏教の立場から死生学を究めてきた方だそうです。
私が聴き入ったのは、中野さんご本人が死の淵に立たされた経験を語ったことと、その後、奥さんを見送ったお話があったからです。
そのせいか、お話の一つひとつが、とても共感できました。
節子を見送って以来、頭で考えたような「死生学」といわれるものに、どうも距離をおきたくなっていたのですが、中野さんの死生学の本なら読めそうだと思いました。
中野さんが話したなかで、一番、心に響いたのが、
「亡き人を覚えていることが家族の役割」
という言葉です。
なんでもない言葉なのですが、私には心の奥底まで響きます。
私がこの挽歌を書き続けようと思ったのも、まさにそうした思いからです。
誰かが覚えている限り、その人は生きつづけている、という思いがあります。
私にとっては、節子は今もなお生き続けていてほしいのです。
それが私の生きる拠り所だからです。
私が節子のことを忘れないで毎日思い続けていることは、
実は自分が生き続けていく支えがほしいからでもありますが、
節子にもずっと生き続けてほしいからでもあります。
同時に、娘たちにも友人知人にも、節子のことを覚えていてほしいという気持ちがあります。
それが自分たち本位の勝手な思いであることはわかってはいるのですが、
ついつい過剰に期待してしまうのです。
ですから思わぬ人から節子の名前を聞くと内心とてもうれしくなります。
生きている証を残したいと思う人は少なくありません。
後世に残るような作品や仕事をしたいという人は私の周りにも少なくありません。
しかし、私にはそうしたことは全く興味のないことでした。
むしろ、自分が生きていたことの証を残すというような思いには否定的でした。
人は、その生命と共に、忘れられるのがいいという思いがありました。
しかし、節子を見送った後、そう思っていない自分に気づいたわけです。
節子を忘れたくないということは、私も忘れてほしくないということにつながっているからです。
「亡き人を覚えていることが家族の役割」
この言葉の意味はとても大きいです。
家族の代わりに、友人や仲間という言葉を置いてもいいでしょう。
人の支え合いは、現世だけの話ではなく、生死を超えてあるものだとようやく気づきました。
きっと彼岸の節子も、現世の私を忘れることなく、覚えていてくれるでしょう。
そう思うと、心がやすまります。
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