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2009/06/27

■地方の反乱と国家のかたち

いまから30年ほど前に書いた「21世紀は真心の時代」という小論の書き出しは、「反乱の時代」でした。
1960~80年代は、各地でさまざまな「反乱現象」が起きていたのです。
つまりそれまでの仕組みのひずみが、露呈し始めていたということです。
しかし、その矛盾への異議申し立ての波は、見事なまでの金銭経済主義の「アメとムチ」の仕組みによって、いずれも牙を抜かれたようにおとなしくなっていきました。

この数日、国政に対する「地方の反乱」が取りざたされています。
国政の仕組みが壊れだしていることの現われでもありますが、そうした動きをマスコミも世論も歓迎しているように思います。
しかし、果たして歓迎すべきことなのかどうか、いささか気になります。

20世紀後半の「反乱」が挫折した理由は、「反乱」側に総論としてのビジョンが弱かったからではないかと思います。
反乱は「各論的問題解決」から始まりますから、プロローグでしかありません。
本編が用意されていないプロローグほど、無意味なものはありません。
小泉政権に始まる「構造改革」も、ビジョンなき改革ですから所詮は反乱の一種でしかなく、その行きつく先は現体制の延命策でしかありません。
ちなみに、企業の世界でも「企業変革」とか「経営改革」がよく叫ばれますが、ビジョンがなければ一過性のお祭りで終わり、成果などあがるはずがありません。

地方分権を掲げる、橋下大阪知事、中田横浜市長の国政政党への働きかけは、各論としては評価できますが、肝心の国家のビジョン、社会のビジョンが曖昧です。
それでは「権力闘争」でしかありません。
そこに「志」を見出すことは難しいような気がします。
「地方分権」は現体制の中の小さな「改善運動」でしかないと考えている私には、「地方分権」という言葉を聞いただけで、ビジョンの欠落を感じてしまうのですが、まあそれはそれとしても、問題は「地方分権」ではなく「全体のビジョン」でなければいけません。

政治の世界は、往々にして、課題が単純化されます。
不幸なことに、国民がそれを望むからです。
郵政民営化の是非で選挙を争うなどという馬鹿げた衆愚政治が行われたのは、つい最近のことです。
「地方分権」を選挙の中心テーマにしてしまうことは、そうした愚行の繰り返しでしかありません。
郵政民営化がそうであったように、地方分権が含意する内容はあまりに多義多様で、そのどこに焦点を合わせるかで、その意味合いは全く変わるでしょう。

橋下さんや中田さんの思いが、おかしな方向にいかなければいいのですが。

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