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2009/06/27

■節子への挽歌664:人生の長さ

昨日、ちょうど50歳を迎えた人が、こう言いました。

私の父母はいずれも50代でなくなりました。だから私も、ともかく50代を悔いのないように過ごすように、できること、やりたいことは、先に延ばさずにやろうと思います。
その言葉を聞いて、思い出したのが、マレーシァ出身のチョンさんの言葉です。
マレーシァでは日本と違って平均寿命が短いんです。
だから日本人ほど人生はゆっくりできないのです。
そのチョンさんも、もう40代です。
今年の初めに日本に来た時に会ったことは書きましたが、この言葉を聴いたのは節子がまだ元気なころでした。
その時から、心にずっと引っかかっていた言葉です。

人の人生の長さには限りがあります。
しかし、それを意識して生きることは、なかなかできることではありません。
最近、私は少しだけ意識するようになりましたが、その意識と日々の行動は必ずしもつながっていません。
本当につながっていたら、今のような時間の使い方はしないでしょう。

そう思う一方で、意識していればこそ、今のような時間の使い方になっているのかもしれないとも思います。
限られた時間を、急いで生きるよりも、限られた時間を無限にゆっくりと生きるほうがいいような気もします。

節子が彼岸に行ったのは62歳でした。
若すぎる、と多くの人は言ってくれました。
節子も、もう少し此岸にいたいと思っていました。
もちろん、私にとってもあまりに早すぎて、その事実が理解できないほどでした。

しかし、考えようでは、人生は「時間の長さ」ではないのかもしれません。
適切な表現が思い浮かばないのですが、「生きた意味の深さ」と言ってもいいかもしれません。
短い人生で、大きなことを成し遂げた人もいますが、そういう意味ではありません。
あくまでも、その人にとっての「人生の意味」です。
人は必ず、ある意味をもって、この世に生まれてきます。
どんな人にも、どんな人生にも、意味があります。
その意味に気づかずに、生きている人が少なくないように思いますが、
節子はその意味を見つけていたような気がします。
なぜそう思うかというと、節子は厳しい闘病の時ですら、基本的にはとても肯定的に生きていたからです。
そして、「とてもいい人生だった」と言ってくれていたからです。

いまの人生を、肯定的に、素直に生きる。
私は、残念ながら、まだその心境には達せずにいますが、意識だけはそう思って生きています。
節子が教えてくれた、一番大きなことかもしれません。

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