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2009/06/12

■節子への挽歌649:ルソーの不安

節子
今日はルソーの話です。
画家のルソーではなく、ジャン・ジャック・ルソーです。
といっても、社会契約などといった話ではありません。
ルソーが言語や文字を恐れていたという話です。
なぜ恐れていたかといえば、文字や言語は、生きている現実の死せる残骸だからだというのです。
これは今村仁司さんの本からの、ちょっと不正確な受け売りなのですが。

ルソーは、『言語起源論』という著者の中で次のように述べているそうです。

「欲望が大きくなり、商売が複雑になり、理性が拡大するにつれて、言語は性格を変える。それは一層正確になるが、情熱を失う。それは感情を観念に置き換える。それはもう心では語らず、理性で語る。まさにそのゆえにアクセントは消え去り、分節化が広がる。言語は正確で明瞭になるが、それだけ長たらしく、重く、冷たくなる」

ルソーのこの指摘に、私は全面的に賛成します。
全くその通りです。
節子は私よりも強くこの考えに共感するでしょう。
私が節子から批判されてきたのは、まさにこのことに通じています。
節子はいつも言っていました。
「言葉では必ず修に言い負かされる」
この言葉が含意しているのは、言葉の世界では修が正しいが、現実の世界では私が正しい、
そして、言葉の世界では生きられないよ、と言うことです。
私たちが、共にそう思えるようになったのは、たぶんお互いが50歳代になってからでしょう。
もっとも、その後も私は「言葉の世界」で節子を言い負かしていましたが。

この挽歌に関しては、娘たちはフィクションが含まれているといいます。
私にはそうした意図は全くありませんが、文字はすべてフィクションなのです。
文字や言葉にしてしまうと、現実とは違う物語になってしまうのです。
そのことは書いている私自身が時々そう感じます。
節子はもっと素敵な人だったとか、もっとダメな人だったとか、そういう気がすることは多いのですが、どうしてもそれは文字にならないのです。
真実にどのくらい迫れるかは文章力の問題ですが、そういう話ではありません。
文字にしてしまうと、どこかで私の中に生きている現実と離れていってしまうということです。
文字が一人歩きするといってもいいでしょう。

そのことは話していても起こります。
節子のことを話していると、いつの間にか私の感覚と違った節子を語っていることに気づくことがあるのです。
後で後悔することもあります。
後悔するのなら話さなければいいのですが、その時はなぜか心の中の節子と言葉で語ってしまう節子とが、私の中ではそれぞれに生きているのです。

文字で書かれた節子、言葉で語られた節子、そして私の心身に今尚生きている節子。
それらは微妙にずれているのですが、どれが本当の節子なのか、判断はできません。
だからルソーは文字や言葉を恐れたのです。
自分の心身を離れて、思考は一人歩きしだすのです。

私は、しかしたくさんの節子に出会えることを選びます。
だから、文字や言葉を恐れることなく、不安など一切無く、この挽歌を書き続けているのです。
私の心身を離れて、一人歩きする節子が育っていったら、どんなにうれしいことでしょう。
その節子に、もしかしたらいつか会えるかもしれないと思っただけで、心がわくわくしてきます。
きっとルソーほど私は賢くないのでしょう。
まあ、あんまり賢いとは思えない節子とお似合いだったのですから。

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