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2009/06/10

■節子への挽歌647:「家族は自己を滅する場」

節子
昨日、家族に言及したので、今日は家族にことを少し書いてみます。
節子がいなくなってから、わが家の家族にもいろいろなことがありましたが、節子のいた頃と基本的には同じです。
少しさびしさはありますが、それぞれにまあ元気です。
そして、今もなお、節子は私たちにとってはとても大きな存在です。

私たちの家族は、常識的に考えると少し変わった家族だったような気がします。
私にとっては理想的な家族環境でしたが、娘たちや節子にとっては、必ずしもそうではなかったかもしれません。
むすめたちには、ちょっと申し訳ない気がしており、最近は反省しています。
私の家族観が少し、いやかなりおかしいのかもしれません。

いささか右翼の福音主義者のスティーヴン・カーターという人は、「家族とはわれわれが自己を滅する場」だといっていますが、彼の思想的な立場はともかく、この言葉には私は納得できます。
もっとも、この言葉からいわゆるドメスティック・バイオレンスのような危険なにおいがしてこないわけでもありません。

彼とは違ってバランス感覚があると思われる市民社会論者のマイケル・エドワーズは、著書「市民社会とは何か」の中で、次のように書いています。

家族とは、もっとも深いレベルで、他者のための犠牲とケアといった特徴をもつ最初の「市民社会」であり、またそうあるべきだといっても差し支えないだろう。信頼、協力、その他のより明確な政治的態度は皆、家庭内でのさまざまな関係の中で形成される。
そして、彼は、「愛情に満ち、互いに支えあう家族関係を形成し育むことは、礼儀正しい社会の建設に不可欠である」とも書いています。
こうした考えは、私の考えとほぼ同じです。
しかし、人は成長する存在ですから、「愛情に満ち、互いに支えあう家族関係」を固定化させることはできません。
娘たちの愛情は親にではなく、外の他者に向かわなければいけないのですが、どうもわが家ではそうならず、今もって2人の娘は結婚もせずに自宅にいます。
だからといって、親をとりわけ愛しているわけではなく、うざったい存在という思いが、年々高まっているように感じます。
にもかかわらず、なぜ結婚もせずにいるのか。
これは私たちが一番気にしていていたことですが、こればかりは親といえども何ともしがたい問題です。
私たちは決してむすめたちを溺愛していたわけではなく、むしろ夫婦の関係が強すぎて、娘たちへの配慮が行き届かなかった面のほうが強いように思います。
もしわが家に問題があるとすれば、娘を溺愛したのではなく、私が節子を愛しすぎたことかもしれません。
もっとも娘たちに言わせると、彼らが子どもの頃は、私は子育てを、したがって家庭のことをすべて節子にまかせっきりだったという思いを持っています。
そんなことは全くないように思いますし、節子が元気だったころ、節子もそうした娘たちの印象を否定していたのですが、子どもの記憶は正しいことが多いので、たぶん彼女たちの言い分が正しいのでしょう。
つまり、私が良き夫になったのは、そして節子に深く惚れ込みだしたのは、私が会社を辞めてからなのかもしれません。
それ以後の私たち夫婦は、おそらく誰にも負けずに愛し合う夫婦になっていたように思います。
いつも一心同体で、そこでは、間違いなく私は「自己を滅して」いました。
そういう場に支えられていたが故に、いまの私の生き方が育ってきているような気がします。
最近は、社会そのものが、私にとっては「自己を滅する場」になってきています。
こうした生き方を目指したいと、21年前に勤めていた会社を辞めた時に、みんなに手紙を書いたのですが、それが実現できてきているわけです。

私の今の生き方は、節子のおかげで実現できたのです。
最近、そのことが実感できるようになってきています。
節子に感謝しなければいけません。
その礼を、直接、言葉で節子に聞かせられないのがとても残念です。

節子、私の思いは届いていますか。

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