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2009/06/03

■御殿場事件と裁判官の犯罪

御殿場事件に関しては、数年前に話題になったのでご存知の方も多いと思います。

ウィキペディアには次のように書かれています。

静岡県御殿場市の御殿場駅近くで2001年9月に発生したとされる集団強姦未遂事件。被害者の証言に数々の不可解な点があり、犯行がおこなわれた日時が裁判途中で被害者の供述のみにより変更され、検察側により「訴因変更」が行われるなど世間の耳目を集めた。被告人側は、強姦事件そのものが存在しない架空の事件であり冤罪であると主張している。
この問題は長野智子さんがご自分のブログも含めて、ずっと追跡取材していますが、一昨日(2009年6月1日)、テレビのドキュメンタリ宣言でまた取り上げていました。
番組サイトに動画も出ていますので、お時間があればご覧ください。
私にはこの事件の真相はもちろんわかりませんが、最高裁がまさかの上告棄却としたのには驚きました。
明らかに警察の捏造事実があり、また被害者の証言変更〈被害のあった日がつじつま合わせのためか後で変わったようですが、そんなことは絶対にありえない話です〉があったのですが、最高裁は事実の審理を拒否したのです。
私には特権を持っている裁判官の犯罪としか思えません。
こうしたことを残したまま、裁判に国民を巻き込むなどと言うことはありえない話なのです。
つまり冤罪隠しと裁判員制度は、深くつながっています。

この事件が冤罪かどうか、はともかく、その可能性は否定できません。
だとしたらもっとしっかりと審議すべきです。
新しい事実も出てきているのですから、審議すべき責任が裁判所にはあるように思いますが、もし法的責任がないとしても、これだけ疑義が突きつけられているのであれば、しっかりと事実を再調査し、その疑義、つまり不信感を解消しなければいけません。
それがあってこそ、裁判制度は持続できるのです。
国民に信頼されない裁判制度は国王(統治者)のものでしかありません。
そうした裁判に、統治される国民を狩り出して冤罪に加担させる仕組みこそが裁判員制度だろうと私は思います。
もし国民に裁かせるのであれば、裁判官は不要です。
裁判官制度や検察制度を変えることなく、裁判制度を変えることの可笑しさに気づくべきです。
前にも書きましたが、日本の裁判制度の基本構造は、民主主義には立脚していません。
明治憲法体制、つまり権力者支配体制に立脚しています。

堀田力元検事が、検察官には説明責任がないと発言したように、検察官は権力者のために事件をでっち上げるための存在なのかもしれません。
裁判官も警察官も、おそらくその国王の検察には立ち向かえないのかもしれません。
おそらくこうした仕組みは、もう30年もしたら瓦解するでしょうが、いまはまだ「権力者の不正義は犯罪にはならない」社会なのです。

いささか書きすぎていますが、
この事件に関しては、すでに刑が確定して、2人の若者はいま刑務所に収監されています。
もしこれが原告の狂言まわしだったとしたら、その2人の若者の人生をどう補償するのでしょうか。
気が遠くなるような話です。
しかし、こうしたことが今なお、決して少なくないのだろうと思います。
そして私たちもまた、そういうことと無縁ではないということです。

みんなが「マスク」をしたくなることがよくわかります。

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