■人を信ずるところからこそ人は裁ける
足利事件で服役中だった菅家受刑者が再審開始を前に釈放されました。
その記者会見をテレビで見ましたが、17年の彼の人生は戻ってくることはありません。
彼の父親の死にも、警察や検察、あるいは裁判官は責任を感ずるべきでしょう。
その覚悟がなくて、人を裁くことなど引き受けてはいけません。
裁判とはそれほどのものであると、私は思いますので、裁判員制度にはついていけないのです。
この報道に対しては、さまざまなところで既に議論されていますので、付け加えることもないのですが、ひとつだけ書いておきたいことがあります。
それは、「疑わしきは罰せず」の法理を、日本の裁判官は思い出せということです。
多くの冤罪事件は、警察や検察の中には、それが冤罪であることを知っているか、または疑っている人は少なくないと思います。
なぜならば、冤罪をつくりあげるのは、まさに警察や検察の人だからです。
もしそうであれば、裁判官はその気になればそれに気づくことは不可能ではありません。
それが見抜けないような裁判官は、誠実さにおいても能力的にも、裁判官になってほしくないものです。
しかし多くの裁判官に、そうしたことを期待するのは無理かもしれません。
そこにこそ、日本の裁判制度の問題があります。
「疑わしきは罰せず」の法理をもっと大事にするべきです。
そこから司法改革は始まるはずです。
人を信ずるところからこそ、人は裁けるのです。
司法界の文化を変えなければいけません。
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