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2009/06/23

■節子への挽歌660:生きることと生きる意志

カナダの極北に住むヘヤー・インディアンと一緒に生活をしたことのある文化人類学者の原ひろ子さんは、その書「子どもの文化人類学」のなかで、その地域の病院の医師の言葉を紹介しています。

「ヘヤー・インディアソは、ちょっとしたことで、すぐ生きる意欲とか執着心とかを失ってしまいます。白人なら絶対死なないような軽度のやけどや肺炎でも、コロリといくんですからね」。
今から20年ほど前に読んだのですが、そのことがずっと気になっていました。
何の本で読んだのか思い出せなかったのですが、今日、その本を書棚から見つけて、この文章を探し当てました。
私は、「ヘヤー・インディアンは生きる意欲を失ったら、自ら生命の灯を消すことができる」と記憶していましたので、かなり意味合いは違いますが、生きるということは生きる意欲に支えられているという点ではつながっています。

この文章が気になりだしたのは、節子の闘病の最後の頃です。
もし、私や娘たちがいなかったら、節子はたぶん1か月早く旅立っていたはずです。
後から思うと、そのことがよくわかります。
もしかしたら、2年前の8月の節子は、彼岸と此岸を往来していたのかもしれません。
そのことに関しては、かなり心当たりがあるのです。

先日、テレビを見ていたら、生活保護を受けながら3人の子どもを育てている母子家庭の母親が出てきました。
彼女は、「もし子どもたちがいなければ生きてはいないだろう」というようなことを話していました。
言葉はちょっと違ったと思いますが、私にはそう聞こえました。
その言葉が、20年前に読んだ本のことを思い出させ、書棚を探し出したのです。

私も、もし2人の娘がいなかったら、ヘヤー・インディアンのように、きっと生命の灯が消えていたような気がします。
それができるかどうかには、あまり自信はありませんが、それもまた豊かな人生だったはずです。

68歳という年齢のせいでしょうか、節子との40年間がとても豊かだったせいでしょうか。あるいは今の社会に、そしてそこに生きている人たちに、心底辟易しているからでしょうか。
私自身は今生き続けることにはほとんど執着はありませんが、2人の娘のことを考えると、そう勝手に、自分の人生を止めるわけにもいきません。
彼らはまだ結婚していないので、親としての責務を果たしていないという思いがあります。
娘にとって、母親であればともかく、父親はあんまりプラスの存在価値はないような気もしますが、それでもいたほうが彼女たちも心強いだろうと思っているわけです。

節子が元気だったころ、人は何かのためではなく、誰かのために生きていると書いたことがあります
私の拠り所だった節子がいなくなったのに、いまなお、生き続けている自分が、とても不思議に思えることがあるのです。
特に、今日のように、とてもさわやかな気持ちのいい日には。

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