■節子への挽歌665:「ともに白髪のはえるまで」
私たちは、いわゆる「職場結婚」でした。
職場の仲間たちが色紙を書いてくれました。
そこに、私と同年齢の山本さんが、「ともに白髪のはえるまで」と書いてくれました。
イラストまでついています。
それは、私たちの合い言葉になりましたが、私がいささか早く白髪になってしまったので、もしかしたら節子が勘違いして、もう目標は達成できたと思ってしまったのかもしれません。
昨日、人生の長さについて書いていて、この色紙を思い出しました。
もう45年ほども前のものなので、色紙の色が変色していますが、久しぶりのそれぞれのメッセージを読んでみました。
すでに亡くなってしまった人が3人もいますが、その一人ひとりにたくさんの思い出があります。
思い出は語り合える人がいれば楽しいでしょうが、一人ではいささかの辛さがあります。
健在の方とは幸いなことにすべて今もお付き合いがあります。
一人を除いてはみんな滋賀県にお住まいですので、会う機会は少ないのですが、みんな私たちの結婚を祝福してくれた仲間です。
節子がいたら、この人たちを訪ね歩く旅もできたでしょうが、残念です。
私は滋賀の工場で4年ほど過ごしました。
私にはすべてが新鮮で、そこでの体験が私の人生に与えた影響はとても大きいです。
労務関係の職場に配属されましたが、「おまえは思想的に問題がある」と言われて、お客様扱いされていたこともあります。
当時の私は少し「跳んでいました」ので、上司にとっては扱いにくくて頼りない存在だったでしょう。
多くの人に迷惑をかけましたし、お世話になりました。
当時の課長は、今でも私のことを「おさむちゃん」と呼びますが、きっと頼りない新人だったのです。
その「おさむちゃん」も、今では白髪の老人です。
しかし、その色紙を見ていると、当時のことが鮮明に思い出されます。
あの頃の私は、「頭」で生きていたのでしょう。
そんな時に出会ったのが、節子でした。
まさか私と節子が結婚するとは誰も思ってもいなかったでしょう。
節子は生真面目で、現実的な人でしたから、私には合うはずもなかったのです。
とらえどころのない私に、節子はきっと振りまわれ、気がついたら結婚していたのではないかと思います。
節子は幸せだっただろうか。
色紙を見ながら、そんなことを考えていたら、また涙が出てきてしまいました。
いつになっても、節子の呪縛から解放されません。
困ったものです。
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