« ■節子への挽歌675:聴き手のいない話せる場があればなあと思います | トップページ | ■生産の無駄と生活の無駄 »

2009/07/09

■節子への挽歌676:元気を運んでくれたコメント

節子
このブログを読んで時々コメントを投稿してくださる maron さんという方がいます。
主に時評編にコメントを下さっています。
このブログは、挽歌と時評とが混在しています。
分けたほうがすっきりするのですが、それらを重ねるところに意味があると思っているため、同じブログに混在させています。
しかし、実際には時評と挽歌は読者が別のようです。
書き手と読み手の考えは、同じではありませんから、それは仕方がありません。
maron さんも、てっきり時評編の読者だとばかり思っていました。

ところが、そのmaron さんが今日、こんなコメントを投稿してくれたのです。

節子さまへの挽歌は私達の心に喜びも悲しみも心に染み込んでまいります。
しかし、会話は2言、3言で終わったと言う事は、それぞれ言葉にするにはあまりにも深い絆で表現が難しいのでは無いでしょうか。
節子様に話しかけられる挽歌だから純粋に表現できるのだと思います。
何時かの挽歌に節子様のお里の高月町の渡岸寺の11面観音像のことが書いてあり、とても懐かしく感じました。
何度かそのお寺にゆきました。私は琵琶湖も余呉湖も大好きです。
この文章からmaron さんの実像がかなりイメージできました。
私のイメージしていたmaron さんとはかなり違うのです。
どこでどう間違ったのでしょうか。
実はmaron さんのブログも何回か読ませてもらっていたのですが、ブログを読めば、maron さんがどういう人かは伝わってきていたはずです。
しかし、なぜか今日までの私のmaron さんイメージは全く違うものでした。
人は、第一印象で相手のイメージを構築します。
そして、そのイメージにどうも呪縛されてしまっていたようです。

私が先入観を打ち破れたのは、今回の投稿の最後の文章です。
私は琵琶湖も余呉湖も大好きです。

余呉湖が好きな人は、おそらく女性です。
それまでなぜかmaron さんが男性だとばかり思っていたのです。
思いなおして、過去のコメントやmaron さんのブログを読み直してみました。
今にして思えば、なぜ男性だと思ったのか不思議です。
maron さん、大変、失礼いたしました。

前置きが長くなってしまい、肝心のことが書けなくなりました。
今日は余呉湖のことを書こうと思ったのですが、明日にします。

ところで、maron さんは、「節子さまへの挽歌は私達の心に喜びも悲しみも心に染み込んでまいります」と書いてくださいました。
時々、挽歌を書き続けている自分に疑問を感ずることもあるのです。
いったいなぜ個人的な挽歌を公開のブログで書くのか。
公開であることで、無意識に粉飾する意図が入り込んでくるのではないか。
節子に向けての真実の思いを果たして吐露しているのか。
まあどうでもいいことなのですが、そうした思いが浮かぶことがあるのです。
もちろん答は明らかなのですが、ではなぜ公開するのか。

実はまさに昨日の挽歌を書いている時に、少し迷いがでてきていたのです。
それをmaron さんは感じてくれたのでしょうか。
このコメントを読んで、救われた気分です。

maron さんが書かれている「私達の心」という文字がとても気になるのですが。
maron さん、ありがとうございました。
パートナーはもうお元気になられましたか。
くれぐれもお大事にしてください。
夫婦は、かけがえのない、大切な関係です。

|

« ■節子への挽歌675:聴き手のいない話せる場があればなあと思います | トップページ | ■生産の無駄と生活の無駄 »

妻への挽歌04」カテゴリの記事

コメント

はじめてメールします。ずーとブログを読ませて頂いています。私も5年前に夫を亡くしました。片翼を失った鳥のように飛べなくなりました。通り過ぎた道は、二度と振り返らないと強い決意で居ながら、ぺしゃんこで立ち上がれない時が時折りあるのです。事業をたたみ、生活の場を変えました.そうしないと、生きてゆけなかったからです。子ども達は自立していたので(両方の親も看取りました)一人暮らしをはじめました。
夫は寡黙な人でした。自分の思いを吐くのも余程のときでした。妻への晩歌を詠ませて頂いて、男性が女性に抱く、静かで熱い想い、細やかな心配り、全編に流れている愛おしさ!
黙って泣きながら読んでいる読者が居ることを、ふと伝えたくなりました。人を愛する苦しみ、哀しみ、喜び、愛しさ。月や太陽、花や,星に周期や又生まれる年度があるように人間の出会いにも、2500万年したら逢えるのだそうです。
愛するとの出会いが、奇跡以外の何ものでもないというのは、真実だと思います。どうぞ頑張って書き続けてください。
迸る想いに、封印しながら明日に向かって生きてゆきたいと願っています。

投稿: 井原 京子 | 2009/07/12 02:11

井原京子さん
ありがとうございます。

何回も何回も読ませてもらいました。
そして結局、今日の挽歌は、このコメントをそのまま紹介してしまうものになってしまいました。
すみません。

2500万年はちょっと長い気もしますが、意外とすぐなのかもしれませんね。
ありがとうございました。

投稿: 佐藤修 | 2009/07/12 16:53

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌676:元気を運んでくれたコメント:

« ■節子への挽歌675:聴き手のいない話せる場があればなあと思います | トップページ | ■生産の無駄と生活の無駄 »