■節子への挽歌688:「神と一緒に過ごす豊かな時間」
節子
昨日、NHKテレビの特集番組で『神と人が出会う日~京都・葵祭一千年の神事』を観ました。
この祭りに埋め込まれている「神を迎え、ともに遊び、供物をささげて敬意を表す」という大きな流れが描かれていました。
観ていて、私自身が最近何か大きな忘れ物をしている気分になりました。
そして、なぜかよくわからないのですが、節子のことを何回も思い出しました。
特に思い出した場面が2か所ありました。
まず、下賀茂神社の御陰祭で、森の中をみんなが歩く場面があったのですが、その時、森から精気を得るというようなナレーションがありました。
こうした場面をみると、いつも罪の意識に襲われます。
なぜ節子と一緒に、この道を歩かなかったのだろうかと。
もう一つは、宮司が警蹕(けいひつ)を発する場面です。
警蹕(けいひつ)とは、辞書には「天皇の出入り、行幸、食事の時などに、人に注意を促し、また邪気を祓うために「おー」と唱えること」とありますが、番組で「言葉が生まれる前の発声」と説明していました。
You-Tubeで、実際にその声も聞けます。
その説明がとても納得できました。
その場面でなぜ節子のことを思い出したのかといえば、私と節子を今つなぐものもまた警蹕(けいひつ)なのではないかと思ったのです。
般若心経などよりも、光明真言よりも、警蹕のほうがいいのではないか。
そんな気がしたのです。
私は、言葉の有無が、人(此岸)と神(彼岸)を分けるものだと思っています。
もしそうであれば、そこをつなぐものは警蹕です。
神には小賢しい言葉は不要です。
人は、バベルの塔の神話が物語っているように、言葉を持ったが故に小賢しくなり、死を体験するようになったのです。
番組の最後に、とても心に残る字幕が画面に出ました。
「神様と一緒に過ごせた豊かな時代の記憶」
心に強く響きました。
この字幕をみて、ふと思いました。
節子は、私にとっての「神様」だったのかもしれない。
葵祭の神事の時間の流れは、ゆったりしています。
節子と一緒の時、私たちの時間の流れもゆったりしていました。
無意味のような時間が、一番充実していたのです。
節子は、私にとって生きる意味を与え、生き方を考えさせてくれる存在でした。
それは、いまもなおそうです。
「神と一緒に過ごす豊かな時間」
私がいま、欠いているのは、それなのかもしれません。
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