■節子への挽歌694:惑うことなく、惑えた幸せ
誰しも心の中には何人かの自分がいます。
心の中にある「思い」のネットワークが、バランスしながら、日々の言動を具現化しているのだろうと思いますが、そのバランスをとる要(かなめ)は多くの場合、自分の心の外にあります。
自己同一性とも訳される「アイデンティティ」という言葉がありますが、これも「社会のなかでのポジショニング」と考えられ、関係性の概念であることはいうまでもありません。
そこを勘違いしてしまうと、アイデンティティはわかりにくい概念になってしまいます。
私の場合、アイデンティティを具現化させる基準は「節子」でした。
節子との距離感や会話(価値観)のやりとりの中から、自分の言動を相対化させ、私の心身に内在する多様な価値観を構造化できていたように思います。
踏み外れるほどに大きく外側に揺れても、戻ってくる目印があったのです。
ですから私は思い切り自分の考えを飛躍させられました。
戻るところは、節子と共有できている世界でした。
節子が許容できる世界と言ってもいいでしょう。
道がなくなったら、そこに戻ってくればよかったのです。
ですから、惑うことなく、惑えたのです。
ところが、その節子がいなくなりました。
とても些細なことでも、自分だけでは判断に迷うことがあることに気づきました。
人生にはさまざまなことがあります。
一つひとつは些細なことなのですが、これまでずっと節子との話し合いの中で決めてきたために、「決める」と意識することもなかったのです。
それに、ただ「決める」だけでは終わりません。
決めたらそれに沿った行動をしなければいけません。
つまり行動が決めることと一致していたのです。
節子がいなくなったために、決めたら自分でやらなければいけません。
そのため決定を延期し、やるべき作業が溜まっていくわけです。
そしてある時、面倒だからもうやめようと言うことになってしまう。
そして自己嫌悪に陥り、滅入ってしまうのです。
日常の暮らしの中で、私たちは周りの人たちとたくさんの問題をシェアしています。
シェアしていればいるほど、私たちの暮らしは安定します。
しかしシェアしにくい問題もあります。
そうしたことが、これまで何気なく(無意識のまま)節子とシェアできていたことが、私の言動を安定させていたことに最近気づきました。
ということは、最近はそれができていないので、あんまり安定していないということです。
最近またどうも精神が安定しません。
これはどうも「暑さ」のせいではなさそうです。
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