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2009/07/08

■なぜ不特定多数の人への殺意が生まれるのか

大阪のパチンコ店放火事件は4人の死者を出してしまいました。
やりきれない思いがします。
やりきれなさは、もちろん、この事件の「表象」に対してもですが、むしろ事件の「深層」にある社会状況に対してです。

犯人は、「仕事も金もなく、人生に嫌気がさした。通り魔みたいに誰でもいいから人を殺したいと思い、人が多数いるところにマッチで火をつけた」と供述しているそうです。
本来、生命はお互いにつながりあって支えあって成り立っているはずです。
他者の生命は、自らの生命に深く関わっていますし、他者(人間に限りません)の生命なくして、自らの生命は存在しないことは、おそらくすべての生命(人間に限りません)に埋め込まれている本性だろうと思います。
したがって、自らの生命との直接的なつながりを感ずる時以外、他者(しつこいですが人間に限りません)を殺したいという思いは、本来、生まれるはずがないと私は思っています。
つまり、不特定多数の人に対する殺意は成り立たないのです。

オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした時、私のこうした考えは見事に打ち破られましたが、あれは「戦争」だったのだと思えば、納得もできました。
だが、その後も、そうした「不特定多数の殺人」は、むしろ広がってきています。
国家がそれを遂行するのであれば理解できるのですが、国家権力とは全く対極にある個人が、「不特定多数の殺意」を抱き、それを現実のものにしてしまうということの意味は、考えれば考えるほど恐ろしくなってきます。
これが広がれば、社会は成り立たなくなるでしょう。
前項の「表層と深層」につなげていえば、もしかしたら、すべての他者が「不特定多数」になってしまっているという社会の実態が、その深層に感じられるのです。

この50年、私たちは「つながり」を壊すことで、経済を発展させ、生活の利便化をはかってきました。
かつては濃密に張り巡らされていた「支え合い」の仕組みは壊され、「セーフティネット」などというわけのわからない機能主義的な仕組みが人為的につくられようとしています。
人為的につくったセーフティネットは、これまでの近代発想の延長にしかありませんから、結局は、さらなる「つながりこわし」になっていくでしょう。
つながりを失った個々の生命は、「自分」対「不特定多数」の世界に投げ出されるわけです。
言い方を変えれば、個人が見えなくなることでもあります。
そんな社会状況に、やりきれなさを感じてしまうわけです。

いささか考えすぎかもしれませんが。

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