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2009/07/23

■節子への挽歌690:生と死は対語ではありません

節子

昼食を、10年ぶりに訪ねてきてくれた弁護士の友人とご一緒しました。
死刑制度の話になりました。
彼は死刑制度肯定の立場、私は否定の立場です。
彼に、死刑を執行する立場に立たされたら、私にはボタンが押せないので死刑制度に反対だ、といいました。
彼は押せると言いました。
ほんとうでしょうか。
彼はとても心やさしい人ですし、自分の人生を大切にしている人です。
もしかしたら、まだ大切な人を失ったことがないのかもしれないと思いました。
大切な人を失うことがないと、問題を論理で考えがちなのです。
しかし大切な人との別れを体験すると、論理など瑣末に感じます。
問題を極めて個別に考えられるようになるのです。

実は、今朝、自死遺族関係の組織の方から電話がありました。
「自殺のない社会づくりネットワーク準備会」のホームページに関して、あることでお叱りを受けました。
明らかに非はこちらにあることがわかりました。
すぐに対応させてもらいましたが、その過程で当事者意識への配慮不足を強く感じました。
当事者の感受性に関しては、私も最近それなりにわかってきているつもりでしたが、問題がちょっと違うと見えなくなるのかもしれません。
心しなければいけません。

この2つは、たまたま同じ今日の出来事というだけで、関係のない話です。
しかし、このおかげで今日は改めて、死について少し考えさせられました。
自死、事故死、病死、死刑による死、それらは同じものなのかもしれません。
すべて「不条理」です。
なぜ節子は私よりも早く死に行き着いたのか。
それは私にとっての「条理」を超えています。
しかし、最初から組み込まれている生のサブシステムと考えれば納得できます。

と、考えてきて、生と死は次元の違う言葉(概念)であることに気づきました。
生と死はよく対で語られますが、この2つは対語ではないのです。
なぜ今まで気づかなかったのでしょうか。

死は生の一局面なのです。
「死」を超えていき続ける「生」。
以前、「死は進化のおかげで人間が獲得した能力」ということを書いたことがあります。
まさに、「死」とはもっとも進化した「生」の局面なのです。
だからなんだ、それで愛する人は戻ってくるのか、と言われそうですが、戻ってはこないのです。
なぜかといえば、行っていないのですから戻りようがない。

話がだんだんややこしくなってきました。
でも、死もまた生、と考えると、少し気がやすまります。

節子
君がいたら、もう少しこの考えを消化できるような気がしますが、いまの節子は返事をしないので、だんだん話が固まってきてしまい、発展できません。
ややこしくなってきたので、今日はこれでおしまいです。
はい。

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