■節子への挽歌673:太子(大師)堂
節子
昨日は節子の友だちの雨森さんから写真が届いたことを書きましたが、その中に太子(大師)堂の写真がありました。
今日は、その太子(大師)堂のことを書きましょう。
太子堂は節子の生家のすぐ近くです。
この地域には太子信仰が根強くあり、これは住民たちがみんなで寄付を集めてつくったものです。
節子もささやかながら寄進させてもらい、太子堂内に名前が刻まれています。
こうやって民間信仰は昔から守られてきたのでしょう。
信仰の厚い人が、その太子堂をお守りしていて、いつも行くたびに少しずつ整備が進んでいました。
節子は、いつもその人の名前を言って、感謝していました。
節子と一緒に生家に戻った時には、私も必ず1回は節子に連れられて、その太子堂にお参りにいきました。
時にお参りにしてきている人に会うことがありましたが、節子は必ずその人に話しかけました。
小さな集落ですから、話していると必ず共通の知人が出てくるのです。
私にはとても新鮮な体験でした。
節子のお母さんは、節子以上に苦労した人ですが、夜、電話すると太子堂に行っていることが少なくありませんでした。
太子堂は、みんなのたまり場にもなっているのでしょうか。
節子の生家があるところは、何回か書いていますが、滋賀県の高月町というところです。
「観音の里」と言われていますが、素直な観音仏が周辺のお寺にたくさん居ます。
有名な渡岸寺の十一面観音もすぐ近くです。
しかし、行くたびごとに、なんとなくその雰囲気が変わってきているような気がします。
昔は大好きだった渡岸寺の十一面観音も、今では人(仏?)が変わったように私には感じます。
ホームページで以前書きましたが、とてもさびしそうなのです。
節子と結婚していなかったら、私にとっては、渡岸寺の十一面観音も結局は鑑賞の対象でしかなかったかもしれません。
しかし、地域の人たちがみんなで守っている様子やその人たちの日頃の生活、日常生活につながる信仰、自分たちのまちは自分たちで創ろうとしている姿勢、そうしたさまざまなことを少しだけ当事者的に考えられるようになったのです。
今から考えると、それが私の価値観や仕事観に大きな影響を与えたように思います。
不思議なのですが、しかし、影響を与えられたはずの私の考えは、節子に会うずっと前から、おそらく私が小学生の頃から、私の中にあったことも間違いありません。
本当の私が、節子によって守られた、というのが私の実感です。
太子堂の写真を見ていると、節子のあの笑みが見えてきます。
節子は、不思議な人でした。
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