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2009/07/08

■節子への挽歌675:聴き手のいない話せる場があればなあと思います

節子
私と同じように、奥さんを見送った同世代の知人がいます。
しばらく会っていなかったのですが、先日、ある集まりで偶然にお会いしました。
それで一度ゆっくり話をしようということになり、今日、お会いしました。
同じ状況の人と会うと何となく心安らぐのではないかという思いがどこかにあったのです。

いろいろと話しましたが、伴侶との別れにつながるような話には全くなりませんでした。
おかしな話ですが、これからの社会のあり方のような話で終始しました。
本音を吐露し合う、それなりの激論ではありましたが。

私たちが知りあったのは、お互いに伴侶を見送った後でした。
私は、その悲しさや寂しさを恥ずかしげもなく露出していますが、そのことを話題にするのは難しいのかもしれません。
いや、話題にしたがっているのは、私だけかもしれない、と思いました。

もうかなり前ですが、伴侶を失った人が2人、わざわざ新幹線でやってきました。
一人は以前からお付き合いのある方(私より先に伴侶を見送っていました)ですが、もう一人は最近夫を見送った、彼女の友人でした。
伴侶を亡くした人が3人集まってどんな話になるのだろうかと思っていましたが、最初の二言三言で、その話は終わりになりました。
少しだけ伴侶を見送ることにおいては先輩だった私としては、何か話したいという思いはあったのですが、両者をつないでくれた一番年長の人がきっと気をきかせて話題を変えたのです。

昨日、節子の友人が3人来てくれましたが、節子の話はほとんど出ませんでした。
私には少し残念でしたが、みんなきっとどう話していいのかわからなかったのかもしれません。
伴侶との別れのことを話すのは、それなりにいろいろと考えてしまうのでしょう。
しかし、みんなもっと大らかに悲しみ合い寂しがり、懐かしんだりしたら、いいと思います。
でもそれが難しいのでしょうね。

今朝、この挽歌に「私も個人的な「妻のメモリアルサイト」を作っています」というコメントが寄せられました。
伴侶への思いを書き続けている人は少なくありません。
話すのと書くのと、どこが違うのか。
少なくとも私の場合、誰かに読んでもらうために書いているのではありません。
ただ、書くために書いているのです。
もし書くのではなく、話す場があれば、書くよりも話すほうが私にはずっといいです。
しかし、その場合、話を聴いてもらいたいのではないのです。
ただ、話すために話したいだけなのです。
聴き手がいると、きっと素直には話せなくなるでしょう。

告別式の挨拶の時、私はたぶん節子に話していました。
だからすごく自然に、素直に話せたのです。
もし聴き手を意識したら、とてもあんな話はできなかったと、今も挽歌に再録した文章を読んで思います。
あの時は、とても不思議な気持ちだったのです。

やはり、節子への挽歌は、話すのではなくて書くのがいいと思いなおしました。
挽歌は、これからも書き続けようと思います。
読み手は、間違いなく節子なのだと、今日、改めて気がつきました。

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コメント

節子さまへの挽歌は私達の心に喜びも悲しみも心に染み込んでまいります。しかし、会話は2言、3言で終わったと言う事は、それぞれ言葉にするにはあまりにも深い絆で表現が難しいのでは無いでしょうか。節子様に話しかけられる挽歌だから純粋に表現できるのだと思います。
何時かの挽歌に節子様のお里の高月町の渡岸寺の11面観音像のことが書いてあり、とても懐かしく感じました。何度かそのお寺にゆきました。私は琵琶湖も余呉湖も大好きです。

投稿: maron | 2009/07/09 04:39

maronさん
いつもありがとうございます。

maronさんのブログ「友達」も読ませてもらいました。

余呉湖に関しては、私もまたブログに書かせてもらいましたが、それに関してもmaronさんがご自分のブログでも言及してくださり、うれしく思います。

いつかまた私も余呉湖を再訪してみようと思います。

投稿: 佐藤修 | 2009/07/12 16:47

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