■節子への挽歌697:「人は幸せになる権利があるし、みんなを幸せにする権利もある」
数日前に、「人は幸せになる権利はあるが、人を不幸にする権利はない、だから死んではいけない」ということを書きました。
その後、ある人から、「人を不幸にする権利はない」という表現に違和感があるとメールをもらいました。
節子との体験のなかから実感していた、そこに込めた私の思いをお伝えしましたが、そのやりとりの中で、この言葉の持つ「トゲ」に気づきました。
「人を不幸にする権利はない」という表現は、批判の要素を持っています。
ですから、感受性の高い人や当事者に近い人は、ドキッとさせられるのかもしれません。
捉えようによっては、節子を批判することにもなりかねないわけです。
私の先のブログをきちんと読んでもらえれば、そうした誤解は避けられるかもしれませんが、それは書き手の勝手な要望ないしは弁明でしかありません。
こうした間違いを、この挽歌でもこれまで何回も繰り返してきているのでしょう。
まだまだ配慮が足りません。
自分の勝手な「言葉の世界」に安住しているのかもしれません。
ところで、先の言葉ですが、トゲを抜くにはどうしたらいいか。
「人を不幸にする権利はない」ではなく、「人を幸福にする権利もある」というほうがいいですね。
ですから、こういう表現になります。
「人は幸せになる権利があるし、みんなを幸せにする権利もある、だから死んではいけない」。
ちょっとイメージが曖昧になって、意味不明になりそうですが、繰り返しこの言葉を声に出して読んでください。
きっと元気が出てきます。
そして、人は本来周りの人を幸せにしてくれる存在であることを思い出させてくれます。
生まれたての赤ちゃんがみんなを幸せにしてくれたように。
節子はいなくなってしまったけれど、今も死んではいないのです。
私や娘たちに、幸せを送り続けていてくれるのです。
節子が、私を幸せにするために、どんなにがんばったか、私にはよくわかっています。
私もがんばらなくてはいけません。
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