■節子への挽歌710:誰にも平等に与えられているのは「愛する心」
節子
今朝の明け方、「ただいま」という声で目が覚めました。
もちろん部屋には誰の姿もありませんし、娘たちの声ではありません。
残念ながら節子の声でもありませんでした。
夢を見たのでしょうが、夢の記憶はありません。
ただ「ただいま」という声で目が覚めたのです。
その声があまりにもはっきりしていたので、応えなくてはいけないような気がして、「おかえり」と声にだしてしまいました。
誰かが聞いているような気がして応えないわけにはいかなかったのですが、「おかえり」には返事はありませんでした。
気がついたら、また眠ってしまっていました。
そして今まで、そのことをすっかり忘れてしまっていました。
それだけの話なのですが、そして節子とはつながらない話なのですが、挽歌を書こうと思ってパソコンに向かったら、急にそのことが思い出されました。
あれはいったいなんだったのでしょうか。
「ただいま」という声は男性の声でした。
そして、寝ていた私を起こすほどにはっきりしていたのです。
だれだったのでしょうか。
そしてなぜ「ただいま」なのでしょうか。
節子がいつか帰ってくるかもしれないという気持ちは、私の心の中にいつもあります。
頭ではそんなことはありえないとわかりきっているのですが、心はそうではありません。
願望でもなく、ただそういう思いが間違いなく心の中にあるのです。
その思いが「ただいま」という声を発したのかもしれません。
人を待つ。
それは「希望」を持つということです。
昨日のフランクルではありませんが、ここでも論理を逆転させることができそうです。
「人は希望があるから生きつづけられる」と私はずっと思っていました。
しかし、生きるということは必然的に「希望」を生み出してくれるのかもしれません。
そういえば、以前、希望について少し書き出したまま、途中で終わっていたような気がします。
その時はまだ「希望」を希望していただけだったのでしょう。
だから、考えがまとまらず書き続けられなかったのです。
いまも考えがまとまっているわけではありません。
しかし、ようやくフランクルの思いが少しわかりだしたような気がします。
愛する人を失ったとしても、愛する人がまだいないとしても、人を愛する心さえあれば、希望はだれにも生まれるのです。
つまり「愛する人を待つ」という希望です。
どんな人にも平等に与えられているのは「時間」だという人がいますが、私はそんな言葉は信じません。
時間ほど不平等なものはないと思っています。
誰にも平等に与えられているのは「愛する心」ではないかと、最近、気づきました。
もしそうであれば、人はすべて「祝福」されている存在です。
「ただいま」は、祝福の気づきの声だったのかもしれません。
今日はなぜか篠栗の大日寺に行った時のような疲労感が続いていました。
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