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2009/08/11

■節子への挽歌709:生きることが各人に課す課題を果たす義務

ナチスの強制収容所を生き抜いたフランクルのことは、何回か書いたことがあります。
挽歌523では、「どんな時も人生には意味がある。あなたを必要とする『何か』があり『誰か』がいて、必ずあなたを待っている」という、彼の言葉を引用させてもらいました。

最近また、迷いや悩みを抱えた人たちがオフィスを訪ねてくるようになりました。
以前ほどではないですが、いろいろな問題を持った人が相談に来るのです。
どうしてみんなやってくるのでしょうか。
私と話したところで、何かが解決するわけでもありません。
そういえば、よく、節子にもそうした疑問を話したことがあります。
節子は、あなたがみんなに声をかけるからじゃないの、と言っていましたが、決してそんなことはありません。
声をかけることもありますが、ほとんどは先方から声をかけてくるのです。
なぜでしょうか。

フランクルは、その代表作「夜と霧」で、こう書いています。

生きるとはつまり、
生きることの問いに正しく答える義務、
生きることが各人に課す課題を果たす義務、
時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
人はそれぞれに役割を持って生まれてくる。
その役割を果たすことが、生きる意味だ、とフランクルはいうのです。
いろいろな人が訪ねてきてくれる。
もしかしたら、それこそ私の役割かもしれません。

私は、節子こそが私の「生きる意味」だとずっと考えてきました。
もちろん今もそう思っています。
しかし、私にはもう一つ「生きる意味」があるのかもしれません。
そういえば、節子は、私が誰かに会うことをいつも応援してくれていました。
疲れて会いに行くのが気の進まない私を、でもその人は待っているんでしょと押してくれたこともありました。
そして、何人もの人に会って死ぬほど疲れて帰宅する私を包み込むようにして、元気を回復させてくれたのです。
私が、仕事もせずにそうやって人に会い続けていても、節子は何も言いませんでした。
貯金がなくなっても、欲しい物が買えなくても、節子は私の生き方を変えろといったことはありません。
私が、働くでも遊ぶでもなく、わがままに生きてこられたのは、そうした節子のおかげです。

最近、またいろんな人がやってくるようになったのは、私に気が戻りだしたからかもしれません。
節子の応援はなくなったかもしれませんが、これが私の役割だとしたら、やめるわけにいきません。

でも時には、節子にこの疲労感を癒してほしいと思います。
他者の問題をささやかであろうとも引き受けるのは、ほんとうに疲れます。

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