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2009/08/23

■節子への挽歌721:イチジク

福岡の蔵田さんがイチジクを送ってきてくれました。
節子が好きだったことを知って毎年送ってくださるのです。

節子がイチジクを好きになったのは、わが家の庭にあったイチジクを食べてからです。
お店で売っているイチジクは節子は食べませんでしたが、そのイチジクは食べるようになったのです。
前に書いたことがあるかもしれませんが、小ぶりですが甘さの強いイチジクです。
日本イチジクではないかと思いますが、よくわかりません。

転居した時も挿木をしましたが、なぜか新しい家の庭ではうまくなりませんでした。
なっても熟す前に鳥に食べられてしまいました。
節子は楽しみにしていましたが、結局、食べることはできませんでした。
節子を見送った年、なぜか一つだけが蜂にも鳥にも食べられずに収穫できました。
その一つを節子の位牌に供えたのをはっきりと覚えています。

ホームページに書いた記憶があったので、読み直してみました。
読み直して驚きました。
淡々と、何もなかったように、書かれていたからです。
おそらくまだ私自身が現実を受け容れられずにいたのかもしれませんが、節子を見送った直後の文章とは信じがたいです。

悲しさは年とともに薄れていくといわれます。
しかしそんなことは決してありません。
むしろ年とともに深くなります。
外面ではたしかに悲しみを克服できたように見えるかもしれません。
しかし内面では、それと比例するように、悲しみや寂しさは深くなっていきます。
2年前の文章を読んで、改めてそんな気がします。

イチジクは日本の神話にはあまり出てきませんが、ヘレニズムの世界の神話では生と死に深く関わりながらよく出てきます。
キリスト教では再臨にもつながっていますし、古代エジプトでは生命の樹はイチジクにたとえられることが多かったといわれます。
イチジクを食べて、神のように復活するという話もあるようです。

蔵田さんからのイチジクは早速、節子に供えさせてもらいました。
そのイチジクを食べて、節子が復活してくれないものかと本気で念じました。
そんなことは絶対起きないといわれそうですが、そうした奇跡が起こるのではないかという思いが心のどこかにあるのです。
だれかを愛すると、人は論理的でない行動をしがちですが、愛する人を失うと論理的でない発想を受け容れてしまうものなのかもしれません。

庭のイチジクの樹は最近手入れもせずにいますが、節子に食べてもらうために久しぶりに手入れをしました。
ただ節子が鳥になって帰ってくるといっていたので、鳥のためにも提供しようと思います。

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