■節子への挽歌703:3万年くらいなら飽きない自信、飽きさせない自信
節子がいないせいか、暇なことが多いです。
正確にいえば、暇ではないのですが(やるべきことは山積みです)、なぜか実際には時間をもてあそぶことが多いのです。
忙しいのに暇が多い、ということはわかってもらえないかもしれませんが、今の私は実際にそうなのです。
そういえば、徒然草を書いた吉田兼好は結婚否定論者でした。
だからこそ、徒然なる時間が山のようにあったのでしょう。
暇な時間の不安をなくすには、何かを書くのが一番です。
そう考えると、この挽歌も、私にとっての徒然草ともいえそうです。
兼好法師は、「徒然草」190段にはこう書いています。
いかなる女なりとも、明け暮れ添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。現代語訳するとこうなります。
女のためも半空にこそならめ。
よそながらときどき通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬなからひともならめ。
どんなにすばらしい女性でも、いつも一緒にいると、疎ましく、嫌になるだろう。兼好法師の結婚観は私とは全く違います。
女性にとっても不安な状態だと思う。
お互い、別のところに住んでいて、時々会うようにしていれば、いつまでも縁が切れない仲になるだろう。
非日常の世界でこそ女性は魅力があり、「妻」として日常的な場の中に導き入れてはいけないというのです。
要するに、彼は日常の中に非日常を見つけられなかった、退屈な人だったのです。
日常と非日常は折り重なっていることに気づけば、彼も結婚したかもしれません。
一緒にいればこそ、相手の深い世界が見えてきますし、ふたりで全く新しい世界を創発させていくこともできます。
私は、節子といつも一緒にいて、疎ましいとか、嫌になったりしたとかいうことは一度もありません。
むしろ毎日が新鮮でした。
そういう気になったのは、一緒に暮らしだして20年ほど経ってからですが。
節子には時々話していましたが、節子と一緒であれば、3万年でも飽きることはなかったでしょう。
節子自身は、3万年までの自信はなかったようですが、私には3万年くらいなら節子を飽きさせない自信はありました。
この挽歌も3万年くらいであれば、書き続けられるでしょうが、飽きっぽい節子のことですから、読みはしないでしょう。
おそらく、もう飽きたとこの挽歌も読んでいないでしょう。
困ったものですが、それがまた節子の魅力でしたから、仕方がありません。
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