■節子への挽歌718:自分の年齢を映し出す鏡
節子
節子がいなくなったために、自分の年齢をきちんと自覚できなくなっているのではないかという気がしてきました。
きっかけは若い友人からのメールです。
この数年会っていないKさんに、ある集まりへのお誘いのメールをしたのです。
そこに、今、地元で2つのグループの立ち上げに取り組んでいることを書きました。
そうしたら、Kさんはこう書いてきたのです。
いまだに活動の立ち上げに関わっているその意欲、感服です。彼はたぶんまだ20代でしょう。
出会った時はたしか大学生でした。
私と同じ我孫子の住民です。
地元でのあるイベントに協力してもらったのがきっかけで知り合い、その後、平和を考える集まりに参加してもらったり、我孫子で立ち上げようとしていたまちづくり関係のネットワークに誘ったりしていました。
しかし節子の病気のこともあって、いずれの活動も中断せざるを得なくなり、その後、交流は途絶えていました。
Kさんは、いまは地元の小学校の先生です。
先生になることは聞いていましたが、なってからは会っていません。
それほどゆっくりと話したことはないのですが、なぜか何かあると思い出す若者です。
その若者から、「まだやってるのですか」といわれたのは、ちょっとショックでした。
私も68歳。
たしかに最近は疲れを感じますし、ともかく面倒なことはしたくなくなっているのです。
今も実は3つのプロジェクトの企画書を書かないといけないのですが、以前なら気楽にすぐ書けたのに、そもそも書こうという気にならずに、延ばし延ばしになっています。
久しぶりに雑誌の原稿も引き受けたのですが、いつもなら楽しみながらすぐ書けた原稿が、いまは書く気が出てこないのです。
いずれも年齢のせいでしょう。
もう引退したらということなのかもしれません。
しかし、そうしたことは起こっていますが、意識的には生き方を変えようなどという気にはなりません。
まだまだ新しいプロジェクト起こしに魅力を感じていますし、いろんなことに口を出したくなるのです。
つまり、10年前となんら意識面では変わっていないのです。
こうしたことが「老害」といわれることなのでしょうね。
節子がいれば、もうそんなプロジェクト起こしや社会活動などやめて、それこそ一緒に俳句を詠むとか、旅行に行くとか、草花の手入れをするとかの、歳相応の生き方に移れるのでしょうが、それができずにいるわけです。
言い換えれば、自分の年齢を映し出す鏡がなくなってしまったのです。
困ったものです。
さてどうしたものでしょうか。
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コメント
驥老伏櫪。志在千里。烈士暮年。壯心不已此は曹操の詩の一節ですが、駿馬は老いて小屋で臥せっていても心は千里を走る、壮心はやまない。
身体と心は別のもので、からだが老いても、心は尚瑞々しく千里を走ることが出来るのかも知れません。
私は貴方より相当年上ですが、あまり歳を気にしません。
貴方と節子様が何時もご一緒にいられるのも心が変わらないからだとおもいます。
mouta@poplar.ocn.ne.jp
投稿: maron | 2009/08/20 22:47
maronさん
ありがとうございます。
「志在千里」
少し考えてみたいと思っているうちに、今日になってしまいました。
いつかブログで書いてみたいと思っています。
投稿: 佐藤修 | 2009/08/28 09:26