■節子への挽歌708:「愛のために自分を投げ出す」
節子
昨日、むすめのユカのお薦めで、テレビで放映されていた「容疑者Xの献身」という映画を見ました。
むすめたちが2人とも、お父さん好みだというのです。
原作は東野圭吾です。
たしかに私好みの「探偵小説」風の作品で、謎解き気分で見ていましたが、やはり最後には節子のことと重なってしまいました。
まあ、何をやっても、どこかで節子の思い出と重なってしまうのは仕方がないことなのですが。
自殺願望を持つ主人公がちょっとしたことで生きる力を手に入れます。
そしてその「生きる意味」を与えてくれた母子のために自らの人生を投げ出すというのが、この映画のあらすじです。
そうした「愛のために自分を投げ出す」とことが、とても自然に心身に入ってきました。
それが、「愛」の本質でしょう。
小説(娘に借りて今日読みました)でも映画でも、最後は同じです。
留置所に連行される車に乗ろうとした主人公の前に、彼が人生を投げ出して守ってやった相手が現れてこういうのです。
「あたしたちだけが幸せになるなんて・・・そんなの無理です。あたしも償います。一緒に罰を受けます、あたしに出来ることはそれだけです。ごめんなさい」
「愛」によって完成するかに見えた完全犯罪は、見事に「愛」によって崩れてしまうのです。
なんという皮肉でしょうか。
これもまた「愛」の本質なのかもしれません。
これだけの説明だとおそらく物語が見えてこないでしょうね。
中途半端な説明ですみません。
小説では、その言葉の後にこう書かれています。
うおううおううおう――獣の咆哮のような叫び声を彼はあげた。絶望と混乱の入り交じった悲鳴でもあった。聞く者すべての心を揺さぶる響きがあった。
映画でも同じ終わり方です。
映画はとてもうまくできていましたが、この場面だけは少し違和感がありました。
以前書いた警蹕(けいひつ)のことを思い出したのですが、私の感覚とはちょっと違っていました。
しかし、それが「言葉が生まれる前の発声」であることは伝わってきました。
節子と一緒に暮らしていた数十年、私は小説をほとんど読まなくなりました。
実際の生活の方にこそ、ドラマがたくさんあったからかもしれません。
日本の作家の小説を読んだのは何年ぶりでしょうか。
ユカから東野圭吾の本を借りて読んでみようと思います。
小説の中に、節子がいるような気がしてきたからです。
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コメント
実際の生活にこそドラマがある・・・そうですね。そうでしたね。
今になって思ってみると、どんなドラマよりもドラマティックな毎日だったように
思います。ある一日を切り取ってもきっと壮大なドラマになると思います。
もっともっと味わいつくせばよかった。。。
節子さんが小説の中にいらっしゃる、きっとそうですね。
主人も小説の中にも、音楽の中にも、色んなところにいます。
先日お墓に行った時に黒い蝶をみつけました。青い模様があるのですが、
その色が主人がしめてたネクタイの色に似ていて・・・主人がいるのだなと
思いました。幸いどなたもいなかったのでしばしその蝶と話をしました。
そうなんです・・・・あちこちに主人がいます。そして、そういうことが
あった一日は涙がいっぱいなんですが、なんだかとても満ち足りた気持ちになります。
東野圭吾さんの本の中から、節子さんをたくさんたくさん探して下さいね。
投稿: 田淵 マサ子 | 2009/08/10 23:13
田淵さん
ありがとうございます。
遅くなっての返事ですみません。
田淵さんからのコメントはいつも深く心に響きます。
今朝、庭に黒いアゲハチョウが来ていたので、思い出してコメントさせてもらいました。
投稿: 佐藤修 | 2009/08/28 09:23