■節子への挽歌724:「残念だったですね」
節子
今日は節子を喜ばすニュースです。
いま日中友好活動に取り組んでいる知人がいます。
いろいろとお誘いや情報をもらいながら、この数年、南野返事も書けずにいました。
先週、その人からまたお手紙をもらいました。
メールで思い切って節子のことを伝えました。
その返信メールです。
こういう状況とは知りませんでした。さてさて、これは事実にかなり反します。
お悔やみ申し上げます。残念だったですね。
小生は、奥様を一度しか事務所で御見かけしませんでしたが、とても知性的で美しく、さぞや若い時は多くの男性から、憧れの眼で見つめられた方だろうと思っていました。
節子は知性的ではなくて、さほど美しくもなくて、それに若い時に多くの男性にもてたわけでもありません。
まあどこにでもよくいる元気な女性の一人でした。
いくら贔屓目に見ても、この節子像は過剰粉飾です。
しかし、そうだとしても、こう書かれると何だかうれしくなってしまうものです。
たとえ嘘でも褒められると幸せな気分になります。
まあそれはいいのですが、
私がこのメールでグサッときたのは、「残念だったですね」という言葉です。
いままで気づかなかったのですが、「残念」という言葉は奥深い言葉だと気づきました。
心残り、無念さ、悔しさ。
いまの私の気分を見事に表わしてくれています。
吹っ切ろうとしても吹っ切れない「念」が残っているのです。
そしておそらく節子もまた、大きな「念」を残して逝ったのではないかという思いから解放されないのです。
念が残っているがゆえに、心身が軽くならないのです。
跳べない、次に移れない、疲れやすい、持続できない。
みんなもしかしたら「念」のせいです。
私がこんな状況なので、節子ももしかしたら成仏できずにいるかもしれません。
「残念」と同義語に「無念」という言葉があります。
無念は、念から解放されたことです。
にもかかわらず、なぜ同義語なのでしょうか。
「残った念」「無くした念」。
何を残し、何を失ったのか。
この謎解きは時間が少しかかりそうです。
| 固定リンク
「妻への挽歌04」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌800:レインボーブリッジの夜景を見ながら思ったこと(2009.11.10)
- ■節子への挽歌799:脱余生考(2009.11.09)
- ■節子への挽歌798:節子の寝顔ももうありません(2009.11.08)
- ■節子への挽歌797:ラ・フランス(2009.11.07)
コメント