■節子への挽歌714:「公式の節子」は彼岸に戻りました
節子には目いっぱい在宅してもらい、夕方、送り火で節子を送りました。
まあ送らなくてもよかったのですが、一応、ルールは尊重しなければいけません。
送らないと誘拐行為になりかねませんし。
こうして節子の帰省も何事もなく終わりました。
節子の親戚は関東にはいないこともあって、節子が帰省していたにもかかわらず、わが家への来訪者も少なく、今年は私の兄夫婦だけでした。
私も兄弟が一人しかいないので、いささかさびしいお盆ではありました。
それに娘たちは同居しているのです。
節子の両親は滋賀の人です。
私の両親は新潟です。
フォッサマグナ(日本列島を東西に題する分断する中央地溝帯)をはさんで、日本は東と西に分かれていますが、私たちが結婚した頃、その両側の西日本人と東日本人が結婚する比率は約1割だと本で読んだ記憶があります。
東日本人と西日本人の気質の違いなども、まことしやかに語られていました。
節子は私からみれば関西人でしたが、どこかで脱西日本人的な指向がありました。
私が節子を知った時、節子は不思議と西日本人の感じがしなかったのです。
前にも書きましたが、たった1回の奈良散策で、幼馴染のような親しみを感じました。
不思議なほど素直にお互いの心が通じたのです。
節子と40年以上、暮らしていて、節子が西日本人だと感じたことはありません。
もっとも娘たちは、節子のことを関西人だと言っていますが。
まあ確かに、そうした面はあるのですが、私には節子のすべてがまったく違和感がありませんでした。
もしかしたら、私も西日本人なのかもしれません。
しかしまあ、これはすべて今から考えてのことです。
夫婦は生活を共にするにつれて、似てくるものです。
似ていない夫婦がいるとしたら、たぶん生活を共にしていないのでしょう。
同じ考え方をし、しかしお互いに本音で注意しあえる伴侶がどんなに大事な存在だったか、この頃、改めて実感しています。
さて、お盆で帰省していた「公式の節子」は彼岸に戻りましたが、わが家に留まっている「私的な節子」はまだ在宅です。
精霊棚は片付けて、またいつもの位牌壇に変えました。
何だかこの方が落ち着きます。
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