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2009/08/05

■「自殺予防対策」という言葉になじめません

先週、福井で、自殺を試みたことのある人たちの集まりに参加しました。
テレビでもよく報道されている東尋坊の茂さんたちに出合い、思いとどまった人たちが中心でしたが、南紀白浜の三段壁や青木が原樹林で自殺を考えた人も参加していました。
こうした集まりは、たぶん、初めての試みだと思いますが、どういう展開になるか、正直、少し不安はありました。
最初は、私自身のなかに少し「自殺を試みたことのある人」という特別視する意識があったのですが、時間が経つにつれて、一緒の仲間と実感できるようになりました。
そのせいか、実に気持ちの良い2日間を過ごさせてもらいました。

ところで、私は「自殺予防対策」という言葉にどうしてもなじめません。
自殺を対象化し、目的概念にしているからです。
もちろんそうした取り組みが大切であり、功を奏していることも理解していますし、そうした活動をこれまでもささやかに支援してきました。
しかし、「自殺予防対策」という言葉の意味がうまく理解できないのです。
否定しているとかそういうことではなく、ただ理解できないでいるということです。

私の関心は、「自殺」ではなく「だれもが気持ちよく暮らせる社会」です。
「だれもが気持ちよく暮らせる社会」では、自殺は起こらないような気がします。
「自殺のない社会」とはどんな社会だろうか。
そうした社会での生き方はどんなものだろうか。
それが私の関心事であり、それを目指した活動に長年取り組んでいます。
そうした活動の流れの中で、4月に「自殺のない社会づくりネットワーク」を仲間と一緒に立ち上げました。
それに関しては、何回かここでも書いてきました。

「自殺のない社会」での生き方は、そう難しいことではありません。
今回の集まりでも改めて確信を得たのですが、隣の人と仲良くしようということです。
それができれば、気持ちよく暮らせるはずです。
なぜそれが難しくなっているのか。
たまたまいま話題になっている裁判員裁判の事件も、「隣人殺人事件」です。
なぜ隣人を殺めてしまうようになってしまったのか、
みんな(犯人だけではありません)の生き方のどこかに、問題があるのです。

政府は今、100億円以上の予算を自殺予防活動に助成しようとしています。
しかしなかなか効果的な対策は見えてこないようです。
先週の集まりで、みんなの話を聴いていて、この人たちが中心になってその資金の活用を考えたら、きっと効果的な仕組みをつくるだろうなと思いました。
みんなでシンクタンクをつくろう、と提案したかったほどですが、まあそういう仕組みを作ると、また「識者」や「業者」が集まってきてしまうので、失敗するでしょう。
世の中をおかしくしているのは、「識者」や「業者」かもしれません。

この集まりの後、敦賀の小さな集落で3日過ごしました。
いつもながら、集落の人たちの支え合う関係にとても幸せな気分になりました。

自殺は今年も3万人を越えるでしょう。
実際には、統計には現れない自殺も少なくないはずです。
それはおそらく「病んでいる社会」の一つの現れです。
社会が病んでいるのは、私たちの生き方が病んでいるからです。
だとすれば、私にも出来ることはいろいろとあるはずです。
そして、みなさんにも。

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