■節子への挽歌702:今生に生きながら、なお彼岸にも生きる
昨日、私はまだ「今生」にいるのでしょうか、と書きました。
これは決して冗談ではなく、かなり私のいまの感覚なのです。
自らの死に気づかなかった男の物語「シックスセンス」のようなことではありません。
そうではなくて、世界の意味が一変し、現実感がなくなってきたということです。
言葉や知識だけの人の言葉は奇妙に通り抜けていき、逆に誠実な生に向かっている人の言葉には不思議な重さを感じるのです。
これは、これまでとはかなり違った感覚なのです。
先週末の福井での合宿で、それを改めて強く意識しました。
身体の向こうに、その人たちの気配が見えるのです。
その気配は、おかしな話ですが、自分でもあるのです。
媒体となっている他者は、むしろ煩わしく、実は私の発話の対象は自分に向かっているような気になることもあります。
ですから、ある意味での独り言に近く、時に饒舌になり、時に寡黙になります。
今生への未練が実感できないことも、そうした感覚につながっています。
なにか血の通った生死ではなく、無彩色の生死感があるのです。
節子がいなくなって、私の生き方の根底で、なにか大きな変化があったような気がします。
言葉では説明できませんし、自分でもしっかりとは認識できませんが、私も含めて世界が変わったことは間違いありません。
いささか気取っていえば、「今生に生きながら、なお彼岸にも生きる」という感じです。
そういう世界では、いわゆる俗世の価値観は瑣末な話になります。
かつての楽しみや歓びは、いまではあまり意味のないものになり、自分を動機づけることもなくなりました。
こうした不思議な感覚の世界を、昔、どこかで見聞したような気がしていたのですが、今朝、それがなんだったか気づきました。
光瀬龍の「宇宙年代記シリーズ」の作品を流れる世界です。
私が最初に読んだのは、「墓碑銘2007年」でしたが、その不思議な世界にしばらくはまってしまっていたことがあります。
私が光瀬龍の世界から抜け出したのは、節子と一緒に暮らしだしてしばらくしてからです。
節子の世界は、光瀬龍の世界とは対極の、単純で明るい世界でした。
愛する人の存在は、世界を閉じてしまうのかもしれません。
閉じるのではなく、構造化してしまうのかもしれません。
いずれにしろ、世界を単純化し、見えやすく、明るくしてしまうのです。
その節子がいなくなって、また私の世界が混沌とし、彼岸とつながったのかもしれません。
しかし、彼岸とのつながりはさほど感じません。
たしかに節子との距離感はあまりないのですが、彼岸が見えるわけでもありません。
ですから、節子がいなくなった寂しさに、ただ心が萎えているだけのことかもしれません。
しかし、心は萎えても、その感受性は強まっています。
感受性が強いことは、生きにくいことです。
見えないものまで見えてくるのですから。
心が萎えると感受性が高まる、というのもおかしな話かもしれませんが、私の場合は間違いなくそんな気がします。
なにやらまた未消化のまま、わかりにくいことを書いてしまいました。
きちんと書こうと思うと1冊の本になりそうですが、きちんと書くほど、まだ見えているわけではありません。
ただ不思議な気配を感じてはいるのですが。
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