■節子への挽歌712:「火の路」
そういえば、12日の新聞にお父さんと同じな前と年齢の人がでていたよ、とユカが教えてくれました。
「佐藤修」という私の名前は、よくある名前で、私自身何回も「佐藤修さん」に出会っていますが、誰だろうと思って新聞を探して読んでみました。
朝日新聞の夕刊に連載されている「ニッポン人脈記」に出ていました。
建築家の佐藤修さんでした。
松本清張と縁があった方です。
松本清張は日本の古代史を材料にした作品も書いていますが、その一つに「火の路」というのがあります。
朝日の記事によれば、その作品を書く時に、清張は取材でイランに行ったそうですが、その時にガイドしたのが、当時テヘラン大学で建築を学んでいた佐藤修さんなのだそうです。
それだけの話なのですが、これを読んで2つの節子との共体験を思い出しました。
「火の路」は、飛鳥時代の日本は古代ペルシアにつながっていたと考える歴史研究家が、イランを訪ねる物語です。
奈良の飛鳥には、いまも酒船石や益田岩船など謎の石造物が残っています。
それが古代ペルシア文明やゾロアスター教につながっているという話です。
清張がイランに行ったのは、その材料集めだったのでしょう。
その作品はNHKによってテレビドラマ化され、何回か連続で放映されました。
私たちは当時、テレビドラマはほとんど見ませんでしたが、なぜかこの番組だけは節子と一緒に見た記憶があります。
そして、なぜかそれをはっきりと覚えているのです。
私は、飛鳥が大好きで、何回も行きました。
もしかしたら、節子と結婚することを決めてから最初に行ったのは、飛鳥寺だったかもしれません。
家族みんなでも行きました。
飛鳥にはいろいろな思い出があります。
私が飛鳥に魅かれるのは、蘇我氏がなぜか好きだからですが、同時に飛鳥に散在する意味ありげな石のせいかもしれません。
飛鳥大仏も私には石の塊に見えて仕方がありません。
あれはどうみても日本の仏像ではありません。
ちなみに、節子の生家は滋賀県の高月町ですが、家がある集落は物部といいます。
物部氏は蘇我氏に敵対する氏族として学校では習いましたが、お互いに仲の良い親族だったという見方もあります。
もちろん私はその説の信奉者です。
話を戻します。
節子は歴史にはあまり興味を示しませんでしたが、なぜか「火の路」は毎週、2人で見た記憶があるのです。
間違っているかもしれませんが、確か主役は栗原小巻でした。
どうでもいいような話ですが、この新聞記事がいろいろなことを思いださせてくれました。
もう一つの共体験はゾロアスター経に関連する話です。
長くなったので、明日にします。
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