■節子への挽歌759:私はこんなに生きようとしているのに、何で死のうと思う人がいるのかしら
昨日の続きです。
メールの送り手の***さんは、健康と経済面での困難さを抱えて、少し前に相談に来ました。
その話をしたら節子が、それはお金が必要だったのよ、と教えてくれました。
しかしお金を提供しても問題を先延ばしするだけだと節子に言ったら、理屈ではなく必要なのよ、というのです。
それでほんのわずかばかりのお金を彼の口座に振り込みました。
すぐ御礼のメールが来ました。
理由もなくお金を振り込んだ私は「罪の意識」を感じていたのですが、救われた気分がしました。
それからしばらくして、先のメールが来たのです。
その時は、節子の症状が急変した直後でした。
こんな時期にと、いささか怒りを感じましたが、本人はそれどころではなかったのでしょう。
節子にはとても言えませんでした。
以前、節子と自殺の話題が出たことがありましたが、その時に節子がぽつんと言ったことを思い出したからです。
私はこんなに生きようとしているのに、何で死のうと思う人がいるのかしら。
口調は静かでしたが、そこからは怒りのような思いが伝わってきました。
私も同感でした。
死に向かわされている人は、決して死のうなどとは思わないでしょう。
昨日、天ヶ瀬ダムにご一緒した東尋坊の茂さんは、これまで200人以上の自殺志願者を思いとどまらせていますが、その中には「余命何年」とか「難病」の人は一人もいなかったそうです。
新潟水俣病関係のシンポジウムに参加した金田さんから、新潟水俣病で苦しんでいる人たちに自殺した人は一人もいないそうだというお話もお聞きしました、
生きようという思いからは「死」は決して生まれません、
どんなに辛くても、死に向かっている人を支えているのは「生きることへの思い」です。
生きるのがどんなに辛くても、死とのつながりを感じていれば、決して死のうなどとは思わないはずです。
イラクでもアフガンでも、おそらく自殺は起こらないでしょう。
では「死のう」という思いはどこから生まれるのか。
実は、どこからも生まれないのではないのか。
「死」から最も遠いところにいる人だけが思いつくのではないかという気がします。
その人にとっては、「死」は現実概念ではないのかもしれません。
自殺してしまう人も、本当は「死のう」などとは思っていないのではないか。
そんな気がして仕方ありません。
10月24日に、自殺多発現場とされているところで自殺防止に取り組んでいる人たちを中心にした公開サミット会議を開催します。
よかったらご参加ください。
CWSコモンズのお知らせのコーナーに予告案内があります。
開催準備のためのスタッフも不足しています。
手伝ってもらえる人がいたら、ご連絡ください。
とても助かります。
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