« ■節子への挽歌755:嵐のような1日 | トップページ | ■新しい頼母子講「みんなの貯金箱」の提案 »

2009/09/26

■ものわかりのよすぎる国民

先日開催した「支え合いサロン」でお呼びした方が、以前、頼母子講を検討していたのでそれがどうなったかにとても興味がありました。
ところが、法制度的にこれからは難しくなりそうだということで止めてしまったということでした。
とても残念です。

共済制度ですら存続が難しくなってきています。
この30年くらいで、「通貨」の意味が大きく変質しましたので、通貨が中心にある仕組みは軒並み影響を受けています。
ですから、その世界から自らを抜け出させないといけません。
その試みの一つが、もう一つの通貨である「地域通貨」です。

期待していた頼母子講の動きが、実施の前で中止になったのは私にはとても意外でした。
なぜなら、法制度の世界から抜け出ようというのが住民の活動ではないかと思っているからです。
無茶な議論に聞えるかもしれませんが、法制度を絶対視する必要はありません。
所詮は人間がつくったものです。
であればこそ、おかしな法制度には抗って行動しなければいけません。
住民の支え合いの文化は、そうした表の経済とは違った文化を志向しなければ、単なるサブシステムに終わります。
ですから規模などは別にして、志向においては法制度を利用するという姿勢が大切で、法制度に従ってはいけないというのが、私の考えです。

たとえば、私が裁判員制度に指名されたら、私は拒否します。
拒否が受け容れられずにやることになったら、私が知ったことは私の判断で公開します。
法制度で罰せられたらそれは仕方がありません。
私もこの社会のおかげで平安を維持できているのですから、罰は受けねばなりません。

さて頼母子講の話です。
私たちは少し「ものわかり」がよすぎるのではないかと感じました。
お上が頼母子講がダメだと考えているようなので、頼母子講は止めよう、といっていたらなにもできなくなりはしないか。
共済制度の関係者の動きを見ていると、どうも法制度を前提に動いているように見えます。そこから自由になって、まずは自分たちが取り組んでいることの価値を自信を持って世に問うことです。
ロビー活動で社会が変わる時代はもう終わりにしなければいけません。
そんな気がします。
自分たちの独自の仕組みを考え出す時期かもしれません。

具体的な頼母子講の提案は項を改めます。

|

« ■節子への挽歌755:嵐のような1日 | トップページ | ■新しい頼母子講「みんなの貯金箱」の提案 »

社会時評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■ものわかりのよすぎる国民:

« ■節子への挽歌755:嵐のような1日 | トップページ | ■新しい頼母子講「みんなの貯金箱」の提案 »