■節子への挽歌753:閉じられた世界
節子
最近ちょっとまた気が下がっています。
どうも生き生きした現場との接点がなくなってきており、充実感がないのです。
節子が持っていた現場感覚がとても懐かしいです。
気が萎えてくると、それが実によくわかります。
軽い「うつ」かもしれません。
しかし、こればかりはいくら自覚しても対応はできないのです。
原因はなんだろうかと考えました。
答は簡単でした。
心で話す時間が少なくなっているのです。
節子がいた頃は、いつも心で話をしていました。
頭で、ではありません。
その話の多くは、ライブな心身につながる生活情報であり現場情報でした。
その話し相手が自宅にいないのが一番の原因だろうと思います。
最近私が話している内容は、どちらかといえば、頭や知識の情報です。
おもしろいのですが、どこかに虚しさがあります。
その世界だけだと、とても疲れるのです。
憩いがないのかもしれません。
節子と話していた多くのことは、極めて個人的で感情的な世界の、それも無意味な話でした。
ただ思うがままに反応しあう世界。
しかし、そこは顔の見える人が織り成す世界でした。
それも、自分が生きている足元につながっている話です。
気候変動の話でも、八ッ場ダムの話でもありません。
いわゆる「茶飲み話」です。
最近どうもそれがないような気がしています。
そういえば節子は私のよく声をかけてくれました。
「修さん、お茶でも飲まない」
節子を通して開かれていた世界が、どうも最近閉じてしまっている。
節子とお茶を飲む時間が、私にとっては大きな意味を持っていたようです。
どうも何かのバランスが崩れてきている。
さてさてどうしたものでしょうか。
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